はじけるこころ 〜第五章〜   

 俺は油の匂いが立ち込める作業場で、工作機械と格闘していた。
 作業の工程は頭に入っているけど、いつも思った通りに手が動いてくれない。
 安全手袋は汗で滑り、スパナを掴む腕が重い。
 小さな整備工場の職員になったといっても、まだ見習いのようなものだ。
 だから、製品を分解して部品を洗浄しもう一度組み立てる、そんな一番簡単な仕事が俺の役目だ。
 だがそれさえも今の俺にはそう簡単には出来ない作業だ。

「どうした? 岡崎。手が止まってるぞ」
「す、すいません」

 たるみがちになってた気持ちを引き締めて、作業に集中する。
 こんな残業に先輩をつき合わせていつまでもモタモタしているわけにもいかないし。
 口うるさくて厳しい先輩だが、こうして俺のために一緒に居残ってくれる面倒見のいい人でもある。
 最後のボルトを力を込めて締めつけた。よし、これで完成だ。

「ふう……終わった……」
「岡崎、それで仕上がったのか?」
「はい、先輩。悪いですけど、確認作業お願いします」
「おう」

 作業が完璧かどうかは必ず先輩に見てもらう。
 自分の作業を確認して貰う時はいつも緊張する。
 全部出来たと思ったはずなのに何かが抜けてるなんてことは珍しくない。
 
「よし。これでOKだ。今日はもうあがっていいぞ」
「はいっ。お疲れ様でしたーーっ」

 ふう、今日は失敗は無かったな。 
 工具を片付けて更衣室へと引き上げる。
 既に他の先輩たちは着替えを終えてタバコを吸って休んでいた。

「で、今日はこれからどうするんだ?」

 作業着を着替えながら先輩が聞いてきた。 
 
「金も無いし、家に帰ります」
「あれ? 岡崎くん、飲み会行かないのかい?」
「すいません、ちょっと用事がありますので」
「よせよせ。新婚の奥さんがいるんだから、すぐにでも帰りたいのさ」
「若いっていいねぇ……」

 ……まあ、そういうことだ。
 でも、みんなが思っているのと少々事情は違うけど。 

「きっと帰ったら裸エプロンだぜ」

 そんなわけないない。

「じゃ、じゃあお先に失礼しまーす」
「頑張れよーー」

 そんな風に囃し立てられながら、職場を後にした。
 リサイクルショップで手に入れた自転車に跨って、俺は帰り道を急ぐ。
 自宅は職場に近い。十五分ほど本道を戻れば、もう自宅付近の商店街が見えてくる。 
 手狭で古いアパートではあるけど、立地条件は悪くなかった。
 さび付いた階段を上って二番目の部屋が俺たちの自宅だ。 
 
「有紀寧、今帰ったぞ」  
「あっ、朋也さん。お帰りなさいませー」

 ぱたぱたと駆け寄って俺を出迎えてくれたのは、裸エプロンの有紀寧……ではない、もちろん。
 普通のエプロンの有紀寧だった。

「ただいま」
「お茶を入れましょうか?」
「ああ。熱いやつを頼む」

 俺にそんな風に問いかけながらも、鞄を受け取り、上着を脱がせてくれる。
 うん、これが夫婦ってやつだよな。
 夫婦って裸エプロンとか、そんな過激なことばかりじゃないだろ?
 こういうささやかな触れ合いが、一番大切な夫婦の絆じゃないかな。

「かといって、俺は裸エプロンなんかいらないって言ってるわけじゃないからな。そこの所は絶対間違えないでほしい」
「え? 何かおっしゃいましたか? 朋也さん」
「いや、なんでもない。ただ、つい思いが溢れてしまっただけだ」
「はあ……そうですか?」

 軽装に着替えて、俺は食卓に座る。
 ふう……ようやく一息つける気分だな。

「はい、朋也さん。熱いですから気をつけて」
「ありがとう」

 有紀寧から熱いお茶を受け取って一口すする。 
 やっぱり家は落ち着くな。

「で、有紀寧。今日は一日何があった?」
「はい。普通に過ごしていましたが」

 本当かよ。
 いや、有紀寧が嘘をついているという意味ではないけど、有紀寧にとっては普通のことであっても、俺にとっては普通のことではない。
 そういうすれ違いは結構多い。
  
「俺は有紀寧がちゃんと無事で家に居てくれるか、毎日心配してるんだぞ。ごまかさないでちゃんと説明してくれ」
「おおげさですよ、朋也さん」

 そう言って有紀寧は微笑む。
 だが、おおげさじゃないと思うぞ……
 俺はこの結婚したばかりの奥さんが心配で仕方ない。
 といっても、奥さんにべったりの亭主とは事情が違う。

「別にごまかしてはいないんですが……いつも通り過ごしているだけです」
「今日は何処にも出かけなかったのか?」
「いえ、今日は魚が安かったので、ちょっとお買い物に出かけていました」
「ふむ、それで? まっすぐ家に帰って来たか?」

 こんな質問、ほんとに嫌な旦那みたいなんだが仕方ない。

「いえ、お魚を買った帰り道で、若い男の方に声をかけられました」

 やっぱりか。 

「で、そいつは何だって?」
「なんでも、私と一緒の夜明けのコーヒーが飲みたいとかで」

 なんだその口説き文句は……
 今時そんなこと言う奴がいるのか?

「で、ちゃんと断ったのか?」
「いえ、夜明けのコーヒーは無理ですけど、喫茶店で昼下がりのコーヒーをご一緒させて頂きました」
「なんでだよ……」

 有紀寧はいつもこんな調子なのだ。
 その人がよさそうな外見のせいなのか、いろんな奴にやたらと声をかけられやすい。
 しかもそんな連中にほいほいついていくのが有紀寧なのだ。
 おかげで有紀寧が家で留守番している間、俺はいつも心配で仕方ない。
 
「いいか、有紀寧。世の中にはお前を甘い言葉で騙して利用しようという悪い奴が沢山いるんだぞ。誰にでも簡単についていっちゃだめだ」
「そんなことないです。世の中にそんなに悪い人はいませんよ」
「いや、けどなあ」
「それに、少し話してみて、やっぱり悪い人ではないって分かりましたから」
「そうは言ってもな……」

 まあ、俺だって人のことをとやかく言えるような人間ではないし、人は見かけによらないというのは分かってる。
 それに有紀寧はもともと不良連中といろいろ付き合ってきたわけだから、俺が思うより案外しっかりしているのかもしれない。
 でも、やっぱり不安だな……

「その方は、わたしが結婚していると知ってとても驚いたようでした」
「そりゃそうだろ……」

 有紀寧のような若い女の子が結婚していると聞いて驚かない奴はいないだろうな。
 ましてや、自分がナンパした女の子だったりしたら。

「朋也さんのことを知りたがっていましたので、私との結婚生活をお話したら、ますます落ち込んでおられました……」

 有紀寧はそう言いつつも、『何故なんでしょう?』と、首を傾げていた。
 ……少しだけ、有紀寧を誘った相手の男に同情する。
 
「でも、『結婚しててもいいので、これから僕と食事に行きましょう!』と誘われました」

 前言撤回。
 ナンパ野郎はさっさとお家に帰れ。

「で、断ったのか?」
「はい、せっかくお魚を買ったのに、そろそろ冷蔵庫にいれないと痛んでしまいますし……」

 魚に救われたか……
 でも、それがなかったらその男についていったのか?
 それはまずいだろ。

「いいか、そいつだって本当は食事が目的じゃないんだよ。それを口実に有紀寧を誘い出して、いけないことをだな……」
「はあ……いけないこと、とはどんなことでしょうか?」
「いや、それはだな……」

 まいったな……どう説明すればいいんだ?? 

「理由もないのに人を疑うのは良くないことですよ?」
「……はい……」

 理由はちゃんとあるんだがな……
 まあ、いい。
 
「で、それからすぐに家に帰ってきたのか?」
「いえ、それからも今日は不思議といろいろな方から声をかけられまして……」
 
 ま、まだ続きがあるのかよ……

「……うう……」
「あら、どうしましたか? 朋也さん?」
「いや……聞いてるだけで胃が痛くなってきた……」
「まあ、大丈夫ですか??」

 いったいお前は毎日どんな危険な暮らしをしているんだよ……?
 やっぱり心配だなあ。
 
「朋也さん。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。朋也さんと暮らすお家ですから、必ずここに帰ってきます」
「うん……本当に気をつけてくれよ」
「はい、任せてください」

 有紀寧は頷いた。実に素直な返事だった。
 俺としては、その素直すぎる性格が心配なんだがな。
 
「まあ、俺もなるべく一緒に買い物とか行くようにするからさ」
「心配してくださることは嬉しいです。では、次のお休みの日に一緒にお買い物に来て下さいませんか?」
「え? いいけど、どこに行くんだ?」
「ええ。こんなこと頼むのも恥しいんですけど……できたら一緒に下着を選んで欲しいんです」
「ああ、下着ね……下着……な、なに!!??」

 今、何って言った??
 一緒に下着を選ぶ???!!
 それって、有紀寧が身に着ける下着を俺に選んでくれってことか?!!
 見ると、有紀寧は恥しそうに俯いている。
 やっぱりそういう意味なのだろうな。

「それって、俺が好きな下着を選んでいいってことだよな??」
「ええ。情けない話なんですけど、私、こういうの初めてで……どんな下着を買ったらいいのか、全然分からないんです。それに、やっぱり朋也さんの好みも確認して選んだ方がいいと思ったので……」
「そ、そうだな。下着の演出は夫婦円満の秘訣だっていうしな」
「そうなんですか……では、いいのを選ばないといけませんね」

 有紀寧は神妙に頷いた。

「朋也さん、よろしければぜひご一緒して下さい」
「ああ、まかせておけ」

 ああ……有紀寧と一緒に下着を買いに行くなんてな。
 ついに、俺たちにも遅い春が来たんだな。
 次の休みが待ち遠しいぜ。  


 そして休日。

「……で、ここはどこだ??」
「あの、下着売り場ですけど……」

 確かに下着売り場だな。
 男性用の。

「御免なさい……ここに一人で入るのは恥ずかしくて……朋也さんについて来て欲しかったんです……」
「そ、そうゆうことかよ……」

 うう……正直、がっかりだ。
 有紀寧にどんな下着を着て貰おうか…そんな夢を膨らませていた俺にとって、これは悲しすぎる勘違いだった。
 でも、まあ話は分かる。
 俺だって、もし女物の下着を一人で買って来いといきなり言われたら、ちょっと戸惑うな。
 
「どうしても一人で入れなくて、売り場の前で何時間も立ち止まっていたらお店の方に怪しまれてしまいました……」
「それは災難だったな」
「とても恥しかったです……」

 有紀寧は小さくなって俯いた。
 若い女の子が男物の下着を買いに来るとなると、人目も気になるだろうな。
 それが真面目な有紀寧にとって非常に恥しい時間だったことは想像に難くない。 

「気が付かなくて悪かったな。下着はこれから俺が買ってくるから」
「いえ、これは本当は私の仕事ですから。今日は付き合って頂きましたけど、買い方を教えて下さればこれからは頑張って自分で買ってきます」
「……そうか??」
「はい、大丈夫です」

 有紀寧は気合を込めて頷く。

「まあ、適当に安いの買えばいいよ。俺の下着なんて」
「いえ、夫婦円満の秘訣ですから。ちゃんと朋也さんの好みの下着を教えて下さい」
「…………」

 好みって言われても……
 余計なこと、言うんじゃなかったな。
 もちろん、あの時はそんなつもりで言ったわけじゃないけど。
 さて、どうしたものか。 
 実のところ、俺は自分の下着にはなんのこだわりもない。
 
「……なら安くてかっこいいやつをとりあえず選んでみてくれよ」
「は、はい……頑張ります……」

 そう応えると、有紀寧は頑張って男の下着を漁り始めた。
 真っ赤になって俺の下着を一生懸命選んでくれる有紀寧。
 健気というかなんというか……
 でも頑張る有紀寧を見ていると、俺も明日から頑張らなければな、と思えてくる。

「あ、あの……これなんてどうでしょうか?」

 有紀寧が恥じらいながらも差し出したのは、なんと低学年向きのTVヒーローがプリントされたパンツだった。
 ”これを履けば、君も今日から強くてかっこいいヒーローだ!!” 
 そういう宣伝文句が貼ってある。値段も安い。
 けどなあ……
 
「俺は小学生かよ……」

 思わず頭を抱えてしまう俺だった。

 まあ、こんな平和な日々がこれからも続くだろう。
 いつまでも。 

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   『有紀寧のほのぼの新婚生活』は今回で最終回です。最後までお付き合い頂いて、誠にありがとうございます。
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