はじけるこころ
 
 宮沢に結婚を申し込んだのは、卒業を数日後に迎えたある日のことだった。
 なんとか就職先も決まり、やるべきことも特に無い俺は、春原の部屋で一人くつろいでいた。
 そこに、叫び声と共にどたばたとした足音がやって来た。
 どうやらこの部屋の主が帰ってきたらしい。
 俺は奴にお茶を淹れるために席を立った。
 
「朋也っ! 僕のために卒業パーティを開くなんて、嘘じゃないか!」

 扉を開けて飛び込んで来た春原は、勢い込んで怒鳴った。

「誰もお前のためなんて言ってないだろ。俺は『卒業パーティがあるからお前も来い』って言っただけだぞ」
「それって、勘違いするだろっ!」
「いや、お前のためだけに卒業パーティを開くなんて、普通は考えないぞ」
「そ、そうかなあ……」
「そうだ。で、どうだった? 卒業パーティ」
「『どうだった?』じゃねえよっ! よりにもよってラグビー部の卒業パーティじゃないか! 『盛り上がってるとこ邪魔するなっ!』てボコボコに殴られたよっ!」
「そうか」
「『そうか』じゃねえっ! なんでこんなことするんだよ!」
「なんだよ……行かないほうがよかったか?」
「いや……実は結構楽しかったんだよね……」

 春原は急に神妙になって、そう呟いた。

「ラグビー部のやつら、最後には僕もパーティに混ぜてくれてさ。みんなでカラオケにも行って、盛り上がったんだ」
「ふむ」
「『卒業しても元気でやれよ』って、僕のこと励ましてくれたりさ……なんだか、すごく嬉しかったよ……」
「……そっか……」
「なんだかさ……あいつらとも、もうお別れだって思うと少し寂しいよなあ……」
「……」
 
 もう卒業は間近に迫っている。
 春原の部屋も今週末には引き上げなければならない。
 荷物の引き上げが進んだ室内は、寂しいほど片付いている。
 この悪友とも、別れの時が近づいているのだ。
 
「不思議だよな……こうして卒業が近づいてくるとさ、僕もあいつらにボコられたことでさえ、なんだか名残惜しい日々に思えてくるんだよな……」
「おまえ、マゾだもんな」
「うん、あれも限界を超えるとだんだん気持ち良く……って、そんな話じゃねぇよっ!」
「そうか? まあいいや。ほい、お茶」
「また僕のことを使用人扱いかよっ……て、あれ? お茶入ってるじゃん」
「ああ。お前が帰ってきたから、さっき淹れたんだ」
「…………」
「なんだ、飲まないのか?」
「……嘘だろ? いつも人を使用人扱いして、自分のお茶だって淹れたことも無い君が……こんな気遣いを、ううっ……」
「……なんで泣いてるんだ? お前。なにも泣くことはないだろ……」
「そ、そうだよな……これは泣くことじゃない、喜ぶことなんだ」
「そんなおおげさなことでもないと思うが……」
「岡崎も成長したよな……ありがとう、頂くよ……」

 春原はごくごくっとお茶を飲み……

「ぶはぁっ?!」
「わ、汚ねっ?! 吐くなよ」
「なんだよ?! このお茶、無茶苦茶まずいじゃん……」
「ああ、本当にまずいよな……」
「な、なんだ? 岡崎も飲んでるのか? これ、いたずらじゃ無いのか……」
「失礼なこと言うな。お前の部屋にあったお茶っぱだぞ」

 この部屋の片付けの時に見つけたものだった。
 荷物になるぐらいなら使ってしまおうと思ったのだが……

「うわ、このお茶っぱ、確か僕が間違ってソースぶっかけて、捨てようと思ってたやつだ」
「……」

 男二人で、ほのかにソース味のお茶をすする。
 最高に、まずかった。
 

「……最低だな……」
「……そうだな……」

 二人して、溜息。
 ……これも卒業の思い出となっていくのだろうか?
 とにかく、このむなしさとお茶のまずさは一生忘れないだろう。
  
「口直しに、資料室にコーヒーでも飲みに行こうかな……?」
 
 この時間ならまだ宮沢がいるかもしれない。
 
「お前も来るか?」
「僕は……行かないよ」
「なんだよ……付き合い悪いな……」

 そう言えば、いつからか春原は全然資料室に近づかなくなった。
 以前は連れて行けとうるさかったくせに。

「なあ、岡崎……有紀寧ちゃんのこと、どうするつもりなんだよ」

 いつになく、真面目な口調で春原が問いかけてきた。

「宮沢がどうしたっていうんだ?」
「どうしたって……このまま卒業したらお別れだぞ」
「そうだな」
「ほっといていいのか? 別れる前に言うべき事があるんじゃないのか?」
「……べつに、俺は宮沢とはなんでもないよ」

 実際、俺と宮沢とは恋人らしいことは何一つしていない。
 資料室には毎日のように通っているけど、俺はそこでコーヒーを飲んだりしながら宮沢とのんびりしているだけだ。

「そう言えば、お前最近資料室に来なくなったな」
「そりゃそうだろ……僕だって、あんな空気を邪魔出来ないって」
「空気って?」
「……今まであえて言わずにいたけどさ……今度資料室に行ったらもっとよく有紀寧ちゃんのこと見てみなよ」




 

 資料室へと向かう廊下を歩きながら、俺は春原の言葉の意味についてぼんやりと考えていた。
 卒業すれば、宮沢とは会えなくなるだろうということ。
 むしろ、努めて今までそのことを考えないようにしてきた。
 宮沢の存在は俺の中でも大きくなっていた。
 特に、就職活動中は春原が地元に戻っていることが多かったし、俺は孤独だった。
 そんな俺の就職活動をずっと見守っていてくれたのが宮沢だ。

 就職活動を初めてすぐのことだ。
 試しにと思って面接に行った大手企業で、そこの面接官にさんざんにこきおろされた。
 何も言い返せなくて、悔しさに呼吸も忘れた。
 その日、資料室に訪れた俺に宮沢は少し変わった飲み物を入れてくれた。
 ホットミルクに、たっぷりのゆであずきを溶かした甘い飲み物。

「疲れが取れると聞いて、いれてみたんです」
 
 そんな風に、俺が元気になるようにいろんな飲み物を入れてくれた。
 中にはすごいのもあった。
 
「ガラナチョコ・コーヒーですよ」
「……これはさ、アレだろ……」

 アダルトな人々に人気の飲み物だ。
 俺のようなお子様が飲むものではない。
 いや、相手がいるなら別だけど……

「フェロモン倍増です。きっと面接でも、もてもてになります」
「そんなもて方嫌だ……」
「精力増強の効果もあるそうですよっ」
「……」
「わたしも飲んでみましょうか……」
「俺を誘ってるんじゃないよな?」
「はい?」

 別の意味で元気になりそうで、やばかった。


 宮沢はそんなふうに、思いやりと天然ボケで俺の気持ちをほぐしてくれた。
 就職活動という形で初めて社会に触れたとき、辛くて逃げ出してしまいたいと思ったことが何度もあった。
 そんな毎日を、宮沢がくれた小さな幸福で乗り切った。 
 面接官にいつもよりちょっとだけ話を聞いてもらえたこと、俺にとって興味がもてる職種を見つけられたこと。 
 そんな、成功とも呼べない些細なできごとを、宮沢は心から喜んでくれた。
 俺は、就職課よりも宮沢のいる資料室に通うようになった。
 もし宮沢が居なかったら、最後まで頑張れなかったかもしれない。

 でも、そんな宮沢の親切は、俺だけに向けられたものではないんだよな……きっと。
 それを独占してしまいたいと思うのは、いけないことなんだろう。 
 いけないこと……そう考えながらも、別れを思うと胸が痛かった。




 ガラガラッ

「あ、朋也さん。いらっしゃいませっ」

 資料室の引き戸を開けると、すぐに宮沢が駆け寄ってきた。
 
「コーヒー、淹れますね」
「ああ。頼む」

 有紀寧はキッチンの方に駆けて行った。
 ……そうだ。キッチンにだ。
 資料室の奥には最低限の調理器具が用意されていたが、宮沢が少しづつ備品を増やし、いまやキッチンと呼ぶのが相応しい風体になっている。
『もっと、いろんなお料理を用意出来ますから』
 宮沢はそんなことを嬉しそうに言ったものだ。

 

「朋也さん、コーヒーここに置きますね」
「ありがとう」

 宮沢はコーヒーを置くと、そそくさと席に着いた。
 二人だけの静かな時間が資料室を支配する。
 おれは、ふとさっきの春原の言葉を思い出した。 
 宮沢のこと、もっとよく見てみろ……か。
 すこしだけ俯いている宮沢の顔を、こっそり覗き込む。
 彼女は穏やかな微笑みをたたえながら、料理の本を読んでいた。
 なにが面白いのか、時折長い髪を揺らしてくすくす笑っていた。
 料理の本でなぜ笑えるんだ? こいつは。
 とはいえ、別にこいつはいつもどおりだよな。
 これだけ間近で見つめても別に何も……
 あれ?
 なんでこいつ、こんなに近くにいるんだ?
 俺は何故か宮沢が隣の席に座っていることに気付いた。
 他にもいくらでも席は空いているのに。
 しかも、二人の椅子はぴったりくっついて、寄せた肩が軽く触れ合っていた。
 ……っていうか、いつからこいつは俺の隣に座るようになっていたんだろう。
 だから春原もここに近寄らなくなっていたのか……
 いつの間にか宮沢はこんなに俺の近くにいて、いつも触れ合っていた。
 そんな事実に、今初めて気が付いた。
 俺は言った。

「宮沢、卒業したら俺と結婚してくれ」

 宮沢は答えた。

「……はいっ。よろしくお願いいたします」

 こうして俺たちはあっさり結婚を決めたのだった。


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   まだ始まりの部分です。新婚生活はこれからです。次回はそれほどお待たせしないつもりです。
   ただ、
これからもHなシーンは出てきませんのでご注意願います。
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