〜第四章〜
思い出す。
俺が菜々子ちゃんに初めて会ったのは学校の校門前だった。
あの時、小柄でどことなく儚げな菜々子ちゃんを見て、『お人形さんみたい』って思ったことをよく憶えている。
菜々子ちゃんはおじいちゃんに聞いたという『魔法使い』を探すために俺達の学校にやって来た。
友達と仲直りしたいという彼女の願いを聞いて、その想いが叶うように俺とるーこも協力して。
その後、るーこの親友になってくれた菜々子ちゃんは、それでも俺とはなかなか打ち解けてくれなかった。
でも、そんな菜々子ちゃんがやっと俺に笑顔を見せるようになってくれたんだ。
そして、俺のことを好きだって言ってくれた。
そこには少し勘違いがあったけども、菜々子ちゃんが笑ってくれるようになって、そのことは本当に嬉しかった。
けど、もう二度とその笑顔を見ることは出来ないかもしれない。
俺からの告白が勘違いだって知った時。
菜々子ちゃんは俺の腕の中で泣いた。
その時、俺は菜々子ちゃんの気持ちが本当に真剣なものであることを初めて知った。
俺はやり方を間違えてしまったんだろうか。
これから何をすればいいんだろう。
(うーは愚かだ。ばかばかのばかだぞ)
宇宙からの電波が俺を責めたてる。
昨日の記憶が頭の中を今でもぐるぐる回っている。
そして今、俺はここに立っている。
「なんで俺、こんなところに来てるんだろう……」
授業が終わっても、どうにも家に帰る気になれなくて。
いつもの帰り道から外れて、ふらふらと歩き回っていたうちに、なんとなくここに来てしまった。
昨日、菜々子ちゃんを泣かせてしまったこの場所に。
普段から人通りの多くないこの裏道は、この時間になっても人気なく静まり返っていた。
まるで昨晩と同じように。
だから嫌でも昨日のことが鮮明に思い出されてしまう。
菜々子ちゃんもここにはもう居ないというのに、今更ここに来て何になるのか。
「菜々子ちゃん、今はどうしてるんだろうな……」
昨日の彼女の涙が頭をよぎる。
悲しんでいなければいいけど……
と、
「お兄ちゃん……?」
「えっ?!」
か細く呼びかけるような声に振り向くと。
驚いたことに、そこに菜々子ちゃんが立っていた。
まさかここで彼女に出会うなんて思ってなかったから、俺は本当に驚いた。
でも驚きはそれだけではなくて。
「な、菜々子ちゃん。えっと、学校帰りなんだね……」
「うん」
俺の言葉に頷く菜々子ちゃんは、その背中に真っ赤なランドセルを背負っていた。
う……まぶしい赤だ。
菜々子ちゃんの登校スタイルを目にするのは初めてのことなんだが。
こうして見ると菜々子ちゃんは本気で正真正銘の小学生だ。
その事実を突きつけられてなにやらズシンと心に重く圧し掛かるものがある。
だってさ。
小学生といったら俺はその頃給食で牛乳飲んだり、昼休みには校庭でドッジボールとかしてたんだぞ。
なんの悩みも無い無邪気なガキどもだったんだ。
そして菜々子ちゃんだってきっとそうだったはずなのに。
そんな年頃の女の子に告白して泣かせてしまうなんて俺は、
「うわあ……」
あまりの罪悪感に膝が脱力してその場にへたり込んでしまう。
菜々子ちゃんはそんな俺を見てとても驚いたようだった。
「お、お兄ちゃん? どうしたの」
「いやごめん、ちょっとめまいがして……」
「あの、顔色がすごく悪いけど大丈夫?」
「な、なんとか……」
俺の手を引いて、菜々子ちゃんが立ち上がらせてくれた。
ああ。つくづく情けない。
「菜々子ちゃんはどうしてここに?」
立ち直った俺は、まず不思議に思ったことを尋ねてみた。
「えっと、あたしはただちょっとだけここに来て……」
菜々子ちゃんは、少し言い難そうに口ごもる。
そ、そりゃそうか。
この場所は昨日俺が菜々子ちゃんを泣かせてしまった場所だ。
そこに菜々子ちゃんが立ち寄っている理由を俺が尋ねるのも失礼というものだ。
そう考えると、ここで出会ったこもまるっきりの偶然ではないのか。
「いや、変なこと聞いて悪かった」
「いいえ。でも、ちょうどよかったです。もし時間があったらわたしに少しつきあってくれませんか?」
「え? いいけど……なに?」
「わたしお兄ちゃんに大事な話があるの……ちょっといいですか?」
「う、うん」
菜々子ちゃんの突然の申し出に、戸惑いながらも俺は頷いた。
それがどんな話であろうとも、俺の立場を考えれば断れるはずもない。
「じゃあ、一緒に来てください」
そう言って、菜々子ちゃんが自分から俺の手を取る。
それは今までに無い菜々子ちゃんの押しの強さだった。
これはなんだろう?
もしかして彼女は家で一人で泣いているかもしれないとさえ思ったのに。
昨日と同じ小さな手に引かれて……でも、しっかりした足取りで歩いていく菜々子ちゃんに戸惑う。
大事な話って、いったい何のことなんだろうか。
彼女に手を引かれて辿り着いたその場所は、俺の家の近所の小さな公園だった。
この場所はかつてるーこが住居としていた場所でありそして、
「この場所で、四葉のクローバーを探していたわたしが、るーこさんとお兄ちゃんに会ったんだよね」
少しだけ懐かしそうにつぶやく菜々子ちゃんはつぶやいた。
「うん。そうだったね」
俺はその言葉に頷き返しながら、今にも泣き出しそうな顔で必死にクローバーを探していた菜々子ちゃんの姿を自然と思い出す。
あの日の光景が記憶にあったから、菜々子ちゃんは傷つきやすい繊細な女の子だという思い込みがずっと心の中に刻まれていた。
でも落ち着いた様子の今日の菜々子ちゃんにはそんな雰囲気が見られない。
しばらく静かに公園の風景を眺めていた菜々子ちゃんだったが、唐突に俺に振り向いた。
「お兄ちゃん、もしかしてわたしが泣いてるかもって思ってませんでしたか?」
「い、いや……」
頭の中で考えていたことをズバリと言い当てられて、俺は思わずたじろいでしまう。
「そう考えてたんですよね?」
「どうして分かるの?」
「さっき会ったときに、暗い顔してたから。とっても」
「そうかな……」
近くに鏡があれば覗き込んでいただろう。
慰めようとするどころか、相手に心配されているようではお話しにならないな。
「わたしは傷ついてなんかないです。だからもう気にしないでください」
菜々子ちゃんはそう言った。
それはさすがに俺の気持ちを察して言ったくれた言葉だろうと思えたけど。
でも、目の前の菜々子ちゃんは俺が想像していた以上に落ち着いて見えるのも事実だった。
「だから、昨日のことはもういいんです。それに全部わたしが決めたことだから」
そう言って菜々子ちゃんは自分のスカートのポケットから何かを探り出す。
「これ、お返しします」
その言葉と共に菜々子ちゃんが差し出したのは、あの日のアクセサリー。
俺が恋愛成就のアクセサリーだとは知らずに彼女に渡してしまったもの。
昨日の晩に菜々子ちゃんの手に嵌められていたそのアクセサリーは、今は彼女の両の手のひらに乗せられている。
「勘違い、だったから。わたしには受け取る資格がないし……」
そう告げる菜々子ちゃんの表情が、そこで初めて悲しい色を見せる。
そんな顔を見ると、これを受け取っていいものかどうか。
やっぱり迷う気持ちになった。
「……いいの?」
「はい。お願いします」
無力感、のようなものを感じながらも結局俺はそのアクセサリーを受け取った。
そうする以外にないと思えた。
俺は受け取ったアクセサリーをじっと見つめた。
手の中に帰ってきたアクセサリーはあの日のまま、何処も変わらない。
そのアクセサリーを見つめて俺は思う。
どうしてこんなものを贈ってしまったんだろう。
正直、そのことに後悔の念だけが今の俺の気持ちを支配していた。
「でも……」
突然、菜々子ちゃんの呟くような声が聞こえて、物思いにふけっていた俺は顔を上げた。
菜々子ちゃんは、俺のことをじっと見つめていた。
そして言った。
「でも、もしよかったらお兄ちゃんからもう一度それを受け取れたらって思ってます」
「ええっ?!」
思わず俺も菜々子ちゃんの顔をまじまじと見つめてしまう。
このアクセサリーをもう一度俺から菜々子ちゃんに渡すこと。
さすがにその意味が分からないはずもない。
俺の視線に気が付いた菜々子ちゃんは、ちょっと困ったようにうつむいて言った。
「あの、そんなに特別な意味じゃなくて。そのアクセサリーの意味の十分の一でもいいから、受け取ることが出来たらって思ってるんです」
「そう言われても……」
俺は戸惑う。たとえ十分の一でもそれは大きな問題だろうと思える。
「本気なの?」
うつむいたままの菜々子ちゃんに俺は尋ねる。
間抜けな質問ではある。菜々子ちゃんがここまでしているのに、本気なのかと聞くのもなんだが。
でも、菜々子ちゃんの気持ちはきちんと確認しておきたい。
「本気……です。えっと、なんて説明したらいいのか。私にとっても初めてのことだから、ちゃんとお話するのは難しいんですけど……」
菜々子ちゃんはゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「あの……わたしお兄ちゃんにそのアクセサリーを受けとってから、すごくいろんなことを考えたんです。考えなきゃいけなかったし」
「うん、分かるよ」
たどたどしくもいっしょうけんめいに気持ちを語る菜々子ちゃんに俺は頷き返す。
その気持ちは容易に想像出来ることだ。
きっと、菜々子ちゃんは頭を抱えていろいろなことを考えたのだろう。
昨日までの俺もそうだったから、よく分かる。
「本当にいろんなことを考えたの。今まで考えたことの無かった、いろいろな気持ちについて。たとえば、恋ってどんなだろうって。わたし今までそういうの、ぜんぜん考えたことなかったんです。……恥ずかしい話ですけど」
「……」
「今、『やっぱりそうか』って思ってませんでしたか?」
「い、いやあ……」
もしかしたらそうなんじゃないかと思ってたけど……
この年頃で恋を知らない女の子というのは今時珍しい。
でも菜々子ちゃんならあまり違和感も無いような。
「でも、本当にいろんなことがあったんです。それは、わたしの心の中だけのことかもしれないけど」
「どんなことがあったの?」
純粋な好奇心から、俺はそう尋ねた。
ここ何日か俺から逃げ回っていた菜々子ちゃんにどんな心の変化があったのだろう。
気にならないと言えば嘘になる。
それに、俺にはきっとそれを知る必要がある。
「お兄ちゃんにあのアクセサリーを渡されて、ちゃんとお返事しなくちゃってずっと考えていたんですけど……わたし、どうしても自分の心が自分で分からなくて。だからゆっこちゃんにお電話でいろいろ相談してもらってたの」
「そうなの?」
菜々子ちゃんの返事に思わぬ名前が登場して、俺はちょっと驚いた。
菜々子ちゃんが遠くに引っ越してしまったゆっこちゃんとも未だに交流を持っていることは聞いてたが、
まさか俺とのことを彼女に相談しているとは思ってなかった。
「その時、『なにかの参考になれば』って、ゆっこちゃんが自分の初恋についていろいろ話してくれたんです。以前初めてバレンタインのチョコを作ったときのこととか……」
女の子にとって初めてのバレンタイン。
菜々子ちゃんと同じ年頃の女の子が初めてのチョコ作りに挑戦する。
その姿を心の中に思い浮べてみる。
それはとても微笑ましい光景に思えた。
「ゆっこちゃんにも好きな人がいて……あの、転校する前のことだったから、あたしも知ってる人なんですけど。サッカー部で、まだ補欠なんだけどレギュラー目指してずっと頑張ってた男の子なんです。その人のために、初めてチョコレートを手作りして。結局恥ずかしくてどうしても渡せなかったんだそうですけど、でも……」
何かを思い出したのだろうか。
菜々子ちゃんの頬が少しずつ薔薇色に染まっていく。
「それでもゆっこちゃんはとても楽しかったって。好きな人のために何かを作ってるときって、特別な気持ちになれるんだって。なんだか恥ずかしくて、でもとても嬉しくて。そんな気持ちになれるって……」
「そうかもしれないね」
そんな菜々子ちゃんの話を聞いていると、なんだか懐かしい気持ちになる。
俺にもそんな風に誰かの背中をただ見つめていた時があったはず。
もう、今は顔も名前もはっきりとは思い出せないような誰かのことを。
でもそんな気持ちを行動に移すことは本当は難しいことで。
少なくともあの頃の俺にはできなかった。
だからこそ思う。
「なんだかすごいんだね。ゆっこちゃんって」
「うん、そうなの!」
さっきまで囁くように話していた菜々子ちゃんが、急に大きな声になった。
「ゆっこちゃんってすごく勇気があるなってわたしも思ったんです。そういうこと出来るってすごいなって。たとえ上手くいかなくても、そういうことに挑戦できるって……本当にすごいことだと思うんです」
なんだか興奮した様子で菜々子ちゃんはそう訴える。
友達を褒められて嬉しかったのか、それともそこに菜々子ちゃんが伝えたい気持ちがあるのだろうか。
「だからわたし、確かめてみようって思ったんです。自分の気持ち。お兄ちゃんのために何かをしてみたら、わたし自身がどんな気持ちになれるんだろうって」
「それでるーこの奴に?」
「うん。るーこお姉ちゃんからお兄ちゃんの好きな料理を聞いて、少しづつだけど練習していたの」
それであの玉子焼きなのか。
俺は少し興奮気味の菜々子ちゃんを見つめながら、しかし彼女が何を言いたがっているのかがだんだんと分かってきた。
「そのとき、わたしはいろんなことを考えていました。なかなか上手くいかなくて、玉子焼きをいくつも焦がしてるうちに頭の中にいろんなことが浮かんできて……」
話し続ける菜々子ちゃんの顔がますます赤くなっていく。
「たとえばこの玉子焼きを食べて、おにいちゃんは喜んでくれるかなって。それとも、もしかしたらあんまり美味しくないって言われるかもしれなくて。そう思うとほんとうはすごく怖かったです。でも……」
その顔が俯いて、僅かに視線だけがこちらに向く。
「も、もし美味しくできたら、わたしのこと好きになってくれるかもしれないって……」
最後の方は掠れるような声で、そう言った。
「だから、美味しいって言ってもらえたとき……本当に嬉しかったです。それはわたしが今まで感じたことのない、不思議な気持ちでした」
そして「あんなひどい玉子焼きでごめんなさい」、と恥ずかしそうに微笑んだ。
その小さな花がこぼれるような笑顔を見て、やっと俺も思いが至る。
菜々子ちゃんがいきなり玉子焼きを作ってくれたり、無謀にもるーこと張り合ったり。
そういう彼女の無茶な行動のあれこれ。
その理由がやっと俺にも理解できた気がする。
(初恋なんだな。この娘にとって本当の)
だからこんなにもひたむきなんだろう。
その菜々子ちゃんは耳まで赤くして俺に一生懸命に語りかけていた。
「だから、わたしお兄ちゃんが好き。いろいろおかしいと思うし、きっと最初は勘違いだったけど。今ではほんとうに好きなんです。だからわたしと……いえ、」
と、そこまで一気に言いかけて、慌てたように口をつぐむ。
「でもあの、付き合って欲しいって言いたいわけじゃないんです。わたしなんて、お兄ちゃんにとってはきっと子供だから。だから恋人だなんて無理なのは分かってるし……」
菜々子ちゃんのその言葉に、俺は『ごめんね』と心の中だけでつぶやきを返した。
彼女にはとても申し訳ないけど、俺の本心は菜々子ちゃんの言葉に近かった。
菜々子ちゃんのことを恋人だと考えることは俺には出来ない。
菜々子ちゃんは、とてもいい娘だと思う。
可愛いと思うし、出来ることなら悲しんで欲しくはないけど。
でも、やっぱりそれは俺の考える恋とは違うはずだ。
「わたし、ただ今はこの気持ちを大切にしたいだけなんです。だからその証を頂けたら嬉しいんです」
でも、菜々子ちゃんはそう言って強い期待の篭った瞳で俺を見つめる。
その瞳の輝きに押されそうになる気持ちがあった。
でも俺はその気持ちを抑える。
きっと、これはそんなに簡単な問題じゃないはずだ。
「……駄目、ですか?」
「……」
「返事、してくれないんですか?」
「ごめん……もうちょっと、待ってくれ」
言いながらも、自分が情けない人間だと、正直感じる。
それでも、待たせてしまうのはかわいそうだけど、そうしてでも少し考える必要があるとやはり思う。
菜々子ちゃんはやっぱり少し気落ちした様子で、しばらくは黙り込んでいたが、やがて頷くと、
「いいんです。すぐには返事は出来ないって気持ち、わたしも知ってます。誰かに突然好きだって言われて、そんなに急に答えは出せないものですよね?」
「うん……」
俺もぎこちなく頷き返す。
確かにそれもある。
でも、俺が返事をすることが出来ないのはそれだけじゃなくて。
「わたしもあれだけお兄ちゃんを待たせちゃったし。だから待ちます。あの、待っていいんですよね?」
「……」
「待たせてください。どんな返事でも聞きたいんです。だから、待ってます」
「うん」
そして。
『それじゃあもう行きますね』と告げると菜々子ちゃんは小さく会釈してその場を去って行った。
俺は菜々子ちゃんが去った後もしばらくその場に立ち尽くしたままだった。
「ふう……」
どうしても、溜息ばかりがもれてしまう。
あれから自分の部屋に戻った俺は、菜々子ちゃんの告白についてずっと想いを巡らせていた。
何よりも先に頭に思い浮かぶ気持ちはひとつ。
「初恋だなあ……本物の」
不謹慎ながらも、昨日の彼女に感心してしまう感情があった。
菜々子ちゃんの言葉のひとつひとつから物凄く純粋な気持ちが伝わってきた。
真面目で大人しい女の子が初恋をすると、あんな感じになるのか。
今の俺から見るとあまりにまぶし過ぎる真っ直ぐな気持ちだった。
それとも誰でもそうなんだろうか。あの頃は。
小学生の片思い。
そのまっすぐな想い俺はどう応えればいいのだろうか。
俺の中の一番素直な感情は、菜々子ちゃんの願いをかなえてあげたいという単純な想いだった。
もし俺に出来ることがあるのなら、あそこまで一生懸命な気持ちを大切にしてあげたい。
そんな安易ではあるけど多分一番正直な気持ちが俺の中に素直にあって。
でもそう思う一方で、きっとそれはやってはいけないことだと強く感じる。
菜々子ちゃんの想いが真剣だからこそ、曖昧な気持ちで証を渡してはいけないと思う。
そうしないと、また同じことを繰り返すだけではないのか。
どっちが正しいのかという考え方で選ぶと、渡さない方が正しいような気がする。
それに。
「るーこのことはどうすればいいんだよ……」
故郷に帰れず、ここに残されたるーこの将来のこと。
その問題がまだなにも解決していない。
場合によっては俺がずっと側についていなくちゃいけないかもしれないとさえ思ったこともあった。
るーこのことを『俺が一生面倒みてやる』なんて、俺が一方的にした約束。
でも、菜々子ちゃんにアクセサリーを渡したらそんな台詞を吐く資格さえ失う気がした。
だって、ずっと側にいるってそういうことだろ?
(やっぱり断ろうかな……)
だんだんそれが一番正しいように思えてくるな……
漠然とした考えが俺の頭の中に僅かに形をとろうとしてきたときだった。
「何をぼーっとしているのだ。うー」
「うわっ?!」
背中から響いた突然の声に振り向くと、部屋の入り口にるーこが立っていた。
「お、お前なんの用だよ?」
「なんの用だ、ではないぞ。もう晩御飯が出来ているぞ。さっきからそう呼んでいるというのに」
俺の問いにるーこは憮然の表情を顔一杯にあらわして答えた。
「そうか……悪い、気付かなかった」
つと傍らの時計を見ると、とっくに六時を回っていた。
かれこれ五時間以上ここで延々と答えの出ない思考を続けていたわけか。
ふう、なんだかな……
「せっかくで悪いけど、今は食欲が無いんだ。後で食べるよ」
俺がそう告げると、るーこは残念そうに肩を落とす。
「なんだ、お前もか。うー」
「お前も?」
「ちびうーにも夕食を喰えと言ったのだが、断られたのだ。まったく、るーの作ったご馳走をお断りするとは。皆失礼な奴ばかりだ」
るーこは何気なくそう告げたが、その言葉の中に俺にとって重要なことが混じっていた。
「おい、菜々子ちゃんが家に来てたのか?」
「うむ。ちびうーに用事があったか? 今出た所だ。すぐ追えば追いつくと思うが?」
「いや、今は用事は無いけど……」
菜々子ちゃんが食事を断ったのは俺と顔をあわせるのを避けるためだろう。
それでも家に来た理由は何だろう。
「菜々子ちゃんは、何か言ってたか?」
「『もしかすると、しばらくは遊びに来れないかもしれないからごめんなさい』と。ただそれだけだ」
「そうか……」
俺は思う。
菜々子ちゃんはこんな時でもちゃんとるーこのことも考えてくれたんだな。
そして、今までそんな気遣いも出来ていなかった自分にまた気がつく。
俺が菜々子ちゃんの申し出を断ったら、俺達の関係は今までどおりでいられるんだろうか。
菜々子ちゃんには今までどおりるーこの大切な友達として俺の家に遊びに来て欲しいと思うけど。
もしかしたら、今後顔を会わせ辛くなってしまう可能性はあるんだよな。
そう思うとまた気持ちが迷い始めてしまう。
ふたりの友情は俺にとっても一番大切な物のはずなのに。
考え始めた俺をじっと見ていたるーこが問いかけた。
「なんだ? ちびうーのことでまだ何か悩んでいるのか?」
「ああ……まあな」
そういえば、るーこは菜々子ちゃんと俺についてどれくらいのことを知っているのだろう。
「お前、菜々子ちゃんに告白のこと聞いたのか?」
「もちろんだ。玉子焼きの作り方をちびうーに教えたのはるーこだぞ」
なぜか自慢げな態度でるーこはそう答える。
別にお前が威張ることでもないと思うが、たしかにそういえばそうだったな。
るーこは事情を全て知っているはずだ。
多少の勘違いはありそうだが。
「うーはいったい何を悩んでいるのだ? 自分が言いたいことを正直に言えばいいだけだろう。うーは余計な小細工を考えすぎだ」
そう尋ねたるーこは本当に不思議そうな顔をしていて、俺が何故悩むかなど全く理解できないで様子だった。
それはいつものるーこであったけど、俺は少しだけうんざりする。
「でも何も考えないわけにはいかないだろ。菜々子ちゃんの感情とか、いろいろ考えないと……」
「ちびうーの気持ちはちびうーのものだ。一人前の女にそのような気遣いは無用だ」
「あのなあ」
「好きなら好きとはっきり言え。好きでもないならそれも仕方ない。それを正直に言えばいい」
「はあ……まったく……」
思わず口から溜息が漏れてしまう。
相変わらずこの手の話題では、るーことはまったく話が噛み合わないことを思い知る。
こういうるーこの言動に悪意が無いということは分かっていても、決して気分のいいものではなかった。
特に今の俺には。
「さあ。うーはさっさと覚悟を決めろ。ちびうーに正直な気持ちを伝えてこい。必要ならるーこも一緒に行ってやるぞ」
だというのにるーこは引き下がらない。
だんだん俺も腹が立ってきた。
「もういい加減にしろ。元はといえばお前が勘違いの原因だろうが。そんなことして菜々子ちゃんが傷ついてもいいのか? お前菜々子ちゃんの親友じゃないのか?」
「間違えたのは確かにるーの責任だ。だが、間違いなら謝って誠意を尽くせばそれでいい。だが、相手を騙すのは絶対だめだ」
「……」
そりゃ言いたいことは分からなくはないけど。
でも俺だって、好きでこんな風にあれこれと考えているわけじゃないのに。
「うーはちびうーに正直な気持ちを、ただそのまま伝えればいいだけなのだ。あれこれと気持ちを偽るような小細工はいらない」
ますます口調を強めたるーこが、俺にずんずんと歩み寄ってきて、肩をゆらしてプレッシャーをかけてくる。
「……これは俺と菜々子ちゃんの問題だ。もうお前が口を出すなよ」
「いやだ。るーこは許さないぞ」
まったくこいつは……どうしても納得してくれないのか?
るーこに俺が考えていることまで全部伝えなくてはいけないのだろうか。
(『正直に』か……)
るーことは正直に、そして本気で話し合わなければならないとずっと思っていたことが一つあった。
それは菜々子ちゃんとのことにも無関係ではないし。
今、そのことをるーこに話すべきなのかもしれない。
「なあるーこ。俺はお前に正直に言いたいとずっと思っていたことが一つあるんだ。聞きたくないかもしれないけど……聞いてくれるか?」
「ああ。なんでも言うがいいぞ。るーこは臆病者ではない。うーの正直な言葉を恐れない」
「そうか。じゃあ言わせてもらうぞ」
いつか言わなければいけないと思いながらも、ずっと言えなかったことだった。
心臓がぎゅっと縮まるような緊張を覚える。
もしかしたら、失敗したら俺はるーこのことを失うかもしれない。
でも、俺は言った。
「るーこ……俺も協力するから、お前の故郷に帰る方法を探そう。やっぱりこのままじゃ良くないと思う」
「む……!」
俺が言葉を口にしたとたん、るーこの顔色がとたんに曇る。
これは危険だと思ったが、俺も今さら引き下がれない。
「お前もこの星にも随分慣れたみたいだけど、本当にこのままでいいと思っているのか? 今からでも遅くない。俺と一緒に故郷に帰れる方法を探すんだ」
「きゅ、急に何を……言うのだ……そんなこと、そんなこと出来るわけない」
「いや。急にじゃない。俺はずっと考えていたんだ。でもお前が……」
「うーは卑怯だぞ! 今はそんな話は関係ない。うーとちびうーの話だったはずだ」
最初は俺の言葉に動揺を見せていたるーこだったが、だんだんその表情に強い怒りが混じってきた。
「いや、だからそうじゃないんだ。俺はいろいろなことを考えてだな……」
「言うな!」
るーこはついに感情を爆発させた。
叫んで、るーこが俺に掴みかからんばかりの勢いで近づいてきたその時。
「お姉ちゃん、やめてっ!!」
二人を制止するその悲鳴のような声。
振り向くと、今にも泣き出しそうな表情の菜々子ちゃんがそこに立っていた。
「やめてよぉ……お兄ちゃん、お姉ちゃん。喧嘩しちゃだめだよ……」
今にも涙がこぼれそうな瞳でそう訴えかける菜々子ちゃんが、何故そこに立っているのか。
俺もるーこも呆然として動けない。
嘘だろ? どうしてこのタイミングで……?
「菜々子ちゃん、どうしてここに……」
「あ、あの。わたし、帰ろうとしたら二人がお話してるのが聞こえて。それがなんだかケンカになりそうな声だったから、心配で……」
聞かれたくない話を聞いてしまった菜々子ちゃんの言葉がどこか俺には言い訳めいて聞こえる。
もちろん菜々子ちゃんが悪いわけじゃないんだけど、どうしてこんな形でこの話を聞かれてしまうんだろう。
菜々子ちゃんがちゃんと帰ったことを確認しなかった俺がうかつだったのか。
どうしよう。見られてしまった。どうしたらいいんだ?
「あの、これはさ、」
動揺がとけきらず、考えなしに伸ばしてしまった俺の手が無造作に菜々子ちゃんの震える肩を掴んだその時。
菜々子ちゃんは怯えたように身体を震わせて、弾けるように部屋を飛び出していった。
「ま、待ってくれっ!」
階段を下って追いかけたが、既に階下に菜々子ちゃんの姿が無かった。
おそらく玄関から飛び出して行ったであろう菜々子ちゃんを俺は追いかける。
今度こそ、今度だけはもう絶対に逃がすわけには行かない。
後を追って家を飛び出し、俺は必死で追いかけた。
菜々子ちゃんの足は相変わらず速かったが、見失わなければきっとなんとかなるはずだ。
たとえ足の速さでは追いつけなくても、俺には体力がある。
幸いにも、菜々子ちゃんは街中ではな、く見通しのいい川原の方に向かってくれた。
これなら遠い背中もまだ見える。
足が鈍り始めた菜々子ちゃんの背中にだんだん追いついていく。
「菜々子ちゃん!」
やっと追いついたその腕をぐっと掴んで彼女を引き止めた。
握ったその手はあまりにもか細い女の子の腕で、強く掴んだことを一瞬後悔してしまった。
「ご、ごめん……痛かったか?」
「……」
俺がかけた言葉に返事はなかった。
うなだれている菜々子ちゃんは、もうすっかり息をきらしているみたいで、これ以上逃げる様子はなかった。
いや、もともと逃げるつもりなんかじゃなかったはずだ。
きっと、あまりにもショックが大きくて、思わず走り出してしまっただけなんだろうとそう思える。
「大丈夫? ……菜々子ちゃん……?」
「……」
もう一度聞いたがやはり返事は無い。
俺は黙り込んだままの菜々子ちゃんの手を引いて川原の土手に座らせる。
綺麗なスカートが土で汚れちゃうかもしれないけど、今は仕方がないよな。
迷子の子供みたいに膝を抱えて土手に座り込んだ菜々子ちゃんの隣に俺も腰かける。
その間も、菜々子ちゃんは俺の方を見ようともしなかった。
「菜々子ちゃん。落ち着いて俺の話を聞いて欲しいんだ」
「……」
俺はなるべく声が優しくなるように努力しながら話しかけたつもりだったが、それが黙り込んだ菜々子ちゃんの耳にまで届いているのかどうなのか。
それでもあきらめずに話しを続ける。
「るーこのこと。別に菜々子ちゃんのせいじゃないんだ。君に会う以前から、るーこは俺のためにちからを使っていたんだ。もともとは俺のために沢山のことをしてくれて。だからさ、」
「でも……やっぱり最後はわたしのために……なんだよね?」
菜々子ちゃんの言葉が声が俺の言葉を遮った。
その声は、川原のせせらぎの音にかき消されてしまいそうなほど、か細く儚い声だった。
彼女はうずくまった膝の間に顔を埋めたまま、そのか細い声でつぶやくように言った。
「さっきの話を聞いて、あの日のことがやっと分かったの。るーこお姉ちゃんが川原でちからを使おうって話してたこと。四回目のちから……きっと私のためにつかっちゃったんだね。そのせいでるーこさんがお家に帰れなくなって……」
訴えつづける菜々子ちゃんの声に涙が混っている。
ほとんど全部のことに気がついてしまったんだな。きっと本当にショックだっただろう。
「そうだよ。でもそれは……」
「わたしも話は聞いてたはずなのに、気付かなかった。今まで。わたし自分のことしか考えていなかったから……」
「そんなのことないよ。気付かなかったのは菜々子ちゃんのせいじゃないし」
俺は菜々子ちゃんを慰めたい一心でそう言った。
電車を止める為にるーこがちからを使ったことは、俺もすぐには気が付かなかったことだ。
るーこの事情をそれほど知らない菜々子ちゃんが気が付かなくても当然だと思える。
でも菜々子ちゃんはまるで俺の言葉も聞こえていないかのように呟き続ける。
「お姉ちゃん、きっと本当はすごく哀しかったんだよね。でも、わたしそんなことさえ気付かなかった……」
「いや、それはさ、」
「こんなんでお姉ちゃんの友達だって思ってたの……馬鹿だね、わたし……」
「そんなことないよ! それは絶対違う!」
聞き流せないその言葉に、俺は思わず立ち上がって大きな声で怒鳴ってしまった。
それは絶対に違う。菜々子ちゃんは誤解をしてる。
何も知らないからそれは当然のことなんだけど。
菜々子ちゃんは突然叫んだその声に、驚いたように俺を見つめていた。
「あの……怒鳴ったりしてごめんね? 怖かったか?」
「う、ううん……いいの……」
謝る俺に菜々子ちゃんは首を振って応えてくれた。
「でも、菜々子ちゃんは勘違いをしてる。るーこは菜々子ちゃんのことを本当に大切な友達だと、きっと思っているはずだよ」
「……どうして? どうしてそんな風に思えるの? わたしなんて、お姉ちゃんにもお兄ちゃんにもただ迷惑をかけてしまっただけなのに」
不思議そうに問いかける菜々子ちゃんに、俺は説明する。
「なあ、菜々子ちゃん。あいつ、故郷に帰れないって分かったとき、一度はまともに話も出来ないくらい落ち込んでしまったんだ。それがやっと元気を取り戻してくれて……でも菜々子ちゃん。そんなるーこのこと、元気にしてくれたのは菜々子ちゃんなんだ。菜々子ちゃんがるーこに会いに来てくれたから、るーこは元気を取り戻してくれたんだよ」
そう。それが俺の信じている真実だ。
菜々子ちゃんは絶対るーこの重荷になんかなってない。
「どうして? わたし、るーこお姉ちゃんが元気になるようなこと……なんにもしてないよ」
「うん。話すよ。るーこと俺と、そして菜々子ちゃんのこと。ずっと話したいと思ってたんだ。菜々子ちゃんには。聞いてくれるよね?」
「うん……」
頷く菜々子ちゃんに俺は話し始める。
菜々子ちゃんにあの日の俺とるーこの思いが届くことを願いながら。
菜々子ちゃんがるーこを立ち直らせてくれたあの時のことを。
―――
あの日。
るーこは四回目のるーを使った。菜々子ちゃんをゆっこちゃんに会わせるために。
そして故郷に帰れなくなったるーこはまるで人形のようになってしまった。
俺に出来たことはそんなるーこを引きずって自分の家に連れ帰ることだけ。
他には何も出来なかった。
るーこは食事も食べなかった。水も飲まなかった。
俺の言葉なんて聞いてないみたいだった。
まるでほとんど息すらしてないようにも見えた。
そんなるーこをどうすることも出来ず俺はただうろたえるばかりで……
無駄に時間だけが過ぎていった。
そんな時、玄関のドアチャイムを誰かが鳴らした。
それが菜々子ちゃんだった。
初めて学校で会ったときと同じように、どこか心細そうに彼女は玄関口に立っていた。
「君は昨日の……どうしてここが?」
「あの、お兄ちゃんのお家がここだって、学校で聞いてきたから」
親切な、もしくはおせっかいな誰かが俺の家を教えたらしい。
それにしても、やっぱりこの娘は俺のことが少し苦手なのかもしれない。
その女の子の返事にはちょっと緊張気味なたどたどしさが混じっていた。
「えっと、確か君は菜々子ちゃんだっけ?」
「は、はい、菜々子です。昨日はお世話になりましたっ」
ぺこっと頭を下げるその動作に、どこか幼さを感じさせる。
昨日俺とるーこが駅まで送り届けた女の子が、たしかにそこに立っていた。
でも何故?
「どうしたの? こんなところまで」
「あたし、まだちゃんとお礼も言ってなかったから……あの、昨日はありがとうございました」
そしてまたぺこっと頭を下げる。
なんだかその動作に小動物のようなせわしさを感じて微笑ましく思える。
さっきまでるーこのことで張り詰めていた気持ちが、少しだけ楽になったような気がした。
「そんなこと、気にしなくてもいいんだよ。別にたいしたことじゃないし。でも、わざわざどうもありがとう」
「それと……お姉ちゃんは学校に居るんですか? お姉ちゃんにもご挨拶したいんですけど……」
「お姉ちゃん? ああるーこのことか」
その言葉にどう答えるべきなのか、一瞬だけ迷う。
るーこは今二階で塞ぎ込んでいるわけだし。とても会わせることなど出来そうにない。
会わせたところで、るーこに何が言えるだろうか。
たぶん、その一瞬の迷いのせいで俺の口先が滑ったのだと思う。
「えっと、るーこはちょっと体調を崩してるというか……でもお礼なんて気にしなくていいよ。俺の口から菜々子ちゃんが来たことはちゃんと伝えておくから」
「ええっ?! お、お姉ちゃん病気でお休みしてるの?」
余計なことを自分が喋ってしまったと、気付いたときにはもう遅かった。
驚いたような叫びをあげる菜々子ちゃんに俺は慌てる。
別にごまかして追い返そういう考えがあったわけではないけど、言葉があまりにも軽率だった。
「もしかして、昨日わたしが無理させちゃったんじゃ……」
「いや! ただの風邪かなんかだと思うから。気にしないで」
慌てて言い訳するが、菜々子ちゃんが安心した様子は無い。
落ち込んだ様子でその心配そうな顔をうつむかせてしまう。
「やっぱり……わたしのせいで、雨の中を走らせてしまったから……」
「いや、あの……」
「わたしお見舞いしたいんですけど。いいですか?」
それは困る、などとはもちろん言えないし。
「その……今はちょっと人には会わせられないというか、えっと、」
「も、もしかして人と会えないほど調子が悪いんですか?」
そう問いただす菜々子ちゃんの瞳から涙がこぼれそうになる。
これは困ったなあ……
「わたし、お姉ちゃんにちゃんと謝りたいです。絶対に。このままじゃ帰れないです。ちゃんとお話させてください、お願いです」
「う、うん」
どうにもこうにも、さすがに俺も頷くしかなかった。
必死な様子で追いすがる菜々子ちゃんを前にして、結局上手い言い訳が思いつかなくて。
彼女を居間で待たせたまま、俺はるーこがいる部屋へと向かった。
「るーこ。ちょっといいか? 頼むから聞いてくれ」
「……」
相変わらずまるで魂の抜けたかのように呆然と宙を見つめているるーこに声を掛ける。
だが、返事どころか何の反応も感じられない。
こうして話しかけている言葉さえ、るーこの耳に届いているかどうか。
それほどまでに今のるーこは……
「いま、下に菜々子ちゃんが来てるんだ。昨日のお礼が言いたいってさ」
「……礼などいらない。そう伝えておいてくれればそれでいい」
眉ひとつ動かすことなく、るーこはつぶやくようにそう答えた。
そっけない返事だが、るーこの状態を思えば返事が返ってくること自体が俺にはちょっとした驚きでもあった。
こんな状態でも菜々子ちゃんのことは気にかけているのかもしれない。
「うん。確かにそうなんだけど……菜々子ちゃん、下でずっと待ってるんだ。お前のことが心配だって」
「心配?」
不思議そうに聞き返される。
「実は……俺が失言したせいで、るーこが昨日のことで病気になったと思い込んでしまったんだ。お前のことをとても心配して、悩んで。見ていてかわいそうになるくらいだ。今のお前には酷かもしれないけど、出来ることなら一目だけでも顔を見せてやってくれないか。それ以上は何も望まないから」
「……」
俺は思いつく限りの言葉を並べて懸命に説得を試みた。
しばしの沈黙。
そしてるーこは無言でゆらりと立ち上がった。
部屋の出口にふらふらと歩み寄り、ちらりとドアの傍らに立っていた俺に視線をよこした。
「どうした? いくぞ」
「……ああ。ありがとう。るーこ」
そんなるーこの後を追って俺も階下に降りる。
階段をのっそりと下ってリビングに姿を見せたるーこに、菜々子ちゃんがはじけるように走りよってきた。
「お、お姉ちゃん、大丈夫なの?」
「どうしたちびうー。るーこに何か用なのか?」
あくまでそっけないるーこだが、それでも菜々子ちゃんは嬉しそうにるーこの手を握った。
「あ、あの。わたし昨日のお礼を言いに。それと、るーこさんが病気だって聞いたから」
「そうか……」
菜々子ちゃんに愛想も見せず言葉を返するーこ。
その態度はそっけないが、でもこうして話しているるーこはさっきまでの落ち込んでいたるーこよりはずっと普通に見える。
やはり菜々子ちゃんに暗い顔は見せられないと気を張っているのだろう。
「お姉ちゃん、身体は大丈夫なの?」
「問題ない」
心配そうに尋ねる菜々子ちゃんに、るーこは無表情で頷き返した。
「そこのばかうーが勘違いしただけだ。るーは病気なんかしない」
「そうなんだ……よかったあ」
安心したように菜々子ちゃんはほっとため息を一つ。
まあ、それはいいんだけどさ。
俺はばかうーよばわりかよ。
そんな俺の胸中などきっと全く知らない菜々子ちゃんは、るーこに昨日のことについて丁寧なお礼を繰り返していた。
「あの、お姉ちゃんのおかげでゆっこちゃんに会うことが出来ました。本当にありがとうございます」
「それは……よかったな。本当に」
そう言ってるーこは、ほんの少しだけど嬉しそうな表情を見せていた。
わずかな笑顔ではあったけど、久しぶりに見ることが出来たるーこの明るい表情だ。
それにひきかえ、
「だが……ちびうーはそれほど嬉しそうに見えないな。何故だ?」
「わ、わたしが? ううん。そんなこと……ないよ」
菜々子ちゃんは手を振ってそう否定したけど……でも、確かにるーこの言うとおりなんだよな。
この家にやって来た菜々子ちゃんの表情は、最初からなんとなく暗かった。
初めて会ったときとおなじように、慣れない他人の家でただ緊張しているだけかもしれないと思っていたけど、どうやらそれだけでもなさそうだ。
いったいどうしたんだろう。
「もしかして……ゆっこちゃんと仲直りできなかったの?」
俺は一番に思いあたったことを菜々子ちゃんに尋ねてみた。
もしそうだとしたら、とても悲しいことだけど。
だが、菜々子ちゃんは静かに首を振ってそれを否定する。
「ううん、そんなことないよ。ちゃんと謝ったらゆっこちゃんは許してくれた。お姉ちゃんたちが見つけてくれた四葉のクローバーを渡して……わたしたち、いつかもう一度会おうねって約束したの」
「そっか。よかったじゃないか」
「う、うん……」
それは、本当に喜ばしいことだと思えるのに。
それでも、頷くゆっこちゃんはやっぱり嬉しそうには見えないし。
「ちびうー。もしかして礼など言いに来たわけではなく、本当はるーこに話したいことがあったのではないのか?」
るーこが真剣な様子で問いかける。
「そうなの? 菜々子ちゃん」
「……」
俺とるーこに質問攻めにされた菜々子ちゃんは、またちょっと黙り込んでしまった。
「無理に話す必要は無い。だが、るーにとっても気になることではあるな。聞かせてくれたほうがいいと思うぞ」
るーこは焦ることなく言葉の先を促す。
「うん、俺もそう思うよ。話してみて、菜々子ちゃん」
「……」
それでも菜々子ちゃんはなにも言わない。
だが、言わないということは、否定もしないということであって。
やっぱり何かがあるのだ。
でもきっと簡単には言えないことなのだろう。
だから、俺もるーこも菜々子ちゃんが口を開くのを待った。
菜々子ちゃんはしばらく彫像のように動かなかった。
俺が用意したお茶にもお菓子にも手をつけなかった。
そのままで長い時間がすぎた。
そして、もう日が暮れようという時間にさしかかった頃、菜々子ちゃんの口からやっとその言葉が零れ落ちた。
「仲直りしても……ゆっこちゃんには、もう会えないかもしれない。ゆっこちゃんの引越し先、とっても遠い場所なんだって。わたし、頑張って自転車にも乗れるように練習するから、ゆっこちゃんに会いに行きたいってお母さんに言ったんだけど……無理なんだって。すごく遠いからわたしには無理だって」
とても辛そうに、やっとそれだけのことを口に出した菜々子ちゃんは、そのまま堪えきれなくなったように声を殺して涙をこぼし始めた。
まいったなあ……
泣き出してしまった菜々子ちゃんに、おそるおそる俺は尋ねた。
「あ、あのさ。引越し先、場所はどこか分かる?」
「ほ、北海道、です……」
しゃくりあげる嗚咽の隙間から、涙に濡れた声がそう答えた。
「北海道かあ……」
聞いた俺も思わず頭を抱えたくなってしまう。
よりにもよって、随分遠い場所だった。
どうしたものかと悩んでいると、るーこが俺に問いかけた。
「ホッカイドウとは遠いのか? うー」
「遠いよ。とても遠い」
俺は答えた。
それは子供にとっては世界の果てに等しい距離だといえる。
自分の足で辿り着ける場所では無い。
「お姉ちゃんたちのおかげで仲直り出来たのに……でも、もう会えないかもしれない……」
菜々子ちゃんは口に手を当てて、こみ上げてくる嗚咽を抑えようとしていた。
でも声を押し殺して泣くその姿が余計に心苦しくて、かえって俺たちの気持ちに影を落としていた。
そんな菜々子ちゃんをるーこはただ黙って見つめていた。
やがて、また振り返って俺に尋ねる。
「うー。どうしてもちびうーをホッカイドーに連れて行ってやることは出来ないのか? お前でも無理か?」
「るーこ……」
そのるーこに質問にどう答えるべきかが俺には分からない。
もちろん物理的に連れて行けないわけでは無かった。
たとえば夏休みにでも俺が連れて行ってあげることがまったく出来ないわけではないだろうし。
でも、それで菜々子ちゃんがいま抱えている問題が解決するんだろうか?
二人が遠く離れて暮らし続ける事実は、俺とるーこにはきっと変えられない。
そして、それはこれからもずっと続いていくことなのだ。
菜々子ちゃんの寂しさは分かるつもりだけど、安易に二人の再会を約束することが正しいことだとは、俺にはどうしても思えなかった。
でも、るーこはそんなことなど知るものかという感じで俺に問いかける。
「出来るのか? 出来ないのか? どうなんだ。うー。どんなに走っても辿り着けないか? るーこが手伝ってもそれは無理なのか?」
「それは……」
「どうなんだ? うー」
噛み付いてくるようなるーこの言いように、はっきりと返す言葉が俺には無かった。
「なんというか、それはそんなに単純な問題ではないわけで……」
「……もういい」
煮え切らない態度で言葉を探していた俺を、るーこはあっさり見限ったようだった。
俺を無視して菜々子ちゃんの座っている椅子へと歩み寄る。
まだ顔を両手で覆って泣いている菜々子ちゃんの隣に腰を下ろすと、るーこは囁きかけるように彼女に言った。
「ちびうー。うーは当てにはならないから、るーこが連れていってやる」
「おい!」
俺は思わずそれを静止しようとしたが、るーこの強い視線に阻まれる。
視線だけであっさり俺を振り払ったるーこはまた菜々子ちゃんに言った。
「ちびうー。もう泣くのはよせ。泣いていても、友達に会えるわけではないのだ。ホッカイドウがどんな遠いかは知らないが、うーが行ける場所ならばるーにもきっと連れて行くことは出来るはずだ」
だが、菜々子ちゃんはるーこの言葉にも膝を固く抱えたまま、その顔を上げようとしなかった。
「……だめだよ、そんなの。もう、お姉ちゃんに迷惑かけられないし……」
しゃくりあげながら、独り言のようにつぶやく。
「るーこが迷惑かどうかはるーこが決めることだ。そんなことをちびうーが決めるのはよせ」
それでも、るーこはいつものようにきっぱりとそう言い返した。
そんなるーこは落ち込む前の、いつもの元気で頑固で真っ直ぐな宇宙人のるーこそのままだった。
「会いたくないのか? 友達に」
「……そんなことないけど、でも……」
「会いたいのかどうか、それだけを答えろ」
涙に濡れるた顔をようやく上げた菜々子ちゃんに、るーこは少し厳しい口調でそう質問した。
「わたし……」
しばらく、くちびるをかみ締めるように言葉を押し込めていた菜々子ちゃんだが、やがて溢れるように話し出した。
「わたし、会いたいよ……だって、ゆっこちゃんとはずっと昔から友達だったんだよ。どんなときも、いつだって一緒だった。楽しいことも、うれしいことも、みんなみんなゆっこちゃんとの一緒の思い出だから……」
「会いたいんだな?」
もう一度、問いかけるるーこに、今度は強く頷き返す。
「うん……会いたい。難しいのは分かるけど、お別れなんてどうしてもいやだよぉ……」
そう言うと、菜々子ちゃんは傍らのるーこにしがみついた。
るーこは手を広げて菜々子ちゃんを胸に抱きいれると、優しくその手で髪を撫でた。
菜々子ちゃんが落ち着くまで、しばらくの間、るーこはずっとそうして菜々子ちゃんの頭を撫でてやっていた。
やがて落ち着いた菜々子ちゃんが顔を上げ、その涙をるーこはハンカチで拭ってやりながらも問いかけた。
「いいか、ちびうー。るーこはホッカイドウがどこにあるのか知らない。だからすぐには連れて行くことが出来ない。るーこがこの星のことを勉強して、何処にあるのか調べて、それから連れて行く方法を勉強して。時間がかかるかもしれない。いや、きっと時間がかかるだろう。それを待つことがお前には出来るか? それまで、ずっとその友達と友達でいられるか?」
るーこの言葉は、小学生の菜々子ちゃんに対しては、厳しい言葉だと思えた。
でも菜々子ちゃんはしっかりと頷いた。
「うん……わたし、ゆっこちゃんのこと大好きだから……ゆっこちゃんがわたしのこと好きでいてくれたら、ずっと友達でいたいよ……」
「よし。じゃあ、約束だ。もし、ちびうーがずっと友達のことを好きでいられたら、絶対にるーが友達に会わせてやる。もし友達に会いたくて寂しい時は、るーが一緒に遊んでやる」
「ほんとう? 信じていいの?」
「ああ。るーは絶対に約束は守る」
るーこはきっぱりとそう言った。
そして菜々子ちゃんが帰ったあと。
るーこは黙って空を見上げていた。
それは、やっぱり自分の帰りたかった故郷のある空を見つめているだろうと思えて。
だからちょっとだけ声がかけ難かった。
でも……俺の目には、さっきよりもるーこはずっと元気に見えていた。
俺は勇気を出して声をかけてみた。
「なあ、るーこ?」
「ん……なんだ?」
「いいのか? 北海道は確かに行けない場所じゃないけど、菜々子ちゃんとゆっこちゃんはそれでも簡単には会えないんだぞ。ずっと一緒にはいられない。それにさ……」
「それに、遠く離れた二人がずっと友達でいるのは難しい、か?」
るーこは俺がまさに言おうとしていたことをあっさり口にした。
そのことに俺は驚いた。
るーこはいつもみたいに考えなしでそこまで言ってしまったのだと思っていたからだ。
「あ、ああ。正直に言えば、俺はそう思うよ。そこまで分かって、なんでお前はあんな約束したんだよ」
「……そうだなうーが不思議に思うのも分からなくはないぞ」
るーこはそっと呟いた。
哀しそうに、空を見上げながら呟いた。
「たとえば……四つ目のるーを使ってしまったるーこのことをみんながどう思っているかは、本当はるーこにも分からない。そしてちびうーの友達には会ったこともない。だから、二人がずっと友達でいられるかどうかは、るーこにも分からない」
そう呟くるーこの声はとても悲しい色をしていた。
そういえば、帰れなくなったるーこが故郷のことを口にするのはこれが初めてなんだと、俺は今更ながら気づく。
きっと、これまでは口にすることさえ出来なかったのだろう。
「でも、大切な友達に会えない辛さだけは、るーこにも分かる。本当に分かる。だから、るーはちびうーを応援したい。心の底からそう願う。もしちびうーが友達に会えることを手伝えるなら、わずかなことでもなんだってしてやりたい。そういう気持ち、うーには分かるか?」
「うん……分かるよ」
俺は頷いた。
「うー。るーはもう故郷には帰れない。家族や仲間にもきっと二度と会えないだろう。それはとても悲しい。涙さえ出ないほど、悲しい。ずっと一緒に暮らしてきたのだ。お別れなんて考えもしなかった。本当に大好きな場所だったのに」
「うん」
俺はもう一度頷いた。
今は、ただ頷くことしか出来なかった。
そして俺に聞かせるでもなく、るーこはただ淡々と言葉を続けた。
「でも、四つ目のるーを使ってよかった。ちびうーの大切な友達との絆を守ることが出来て、本当によかったぞ」
「うん」
「あの”るー”を使ってよかったぞ。るーこは後悔していない。ちびうーが友達を好きだという気持ち、ちゃんと守ることが出来たなら本望だ。やっぱりるーは間違っていなかったぞ」
「うん」
ただただ頷き続ける俺を振り返って、るーこはまたちょっとだけ笑った。
その笑顔は、俺を深く安心させてくれる穏やかな笑顔だった。
「さて、なんだかるーは腹がへったぞ。うー、さっさと飯を作れ」
「……へいへい。わかったよ」
食欲を取り戻したるーこは、やっぱりいつも通りに食事の味についてはやたらとうるさいこだわりを見せ、
『これからはうーに任せておけないから自分で作る』と言い出した。
まあ、いいけど。
お前がそう言うならやってみせろよ。
―――――――――――
「俺から話すことはこれで終わりだよ」
少し長い話昔話を終えて、俺は菜々子ちゃんを振り返る。
菜々子ちゃんの顔には驚きが浮かんでいた。
俺が話しを終えて自分に視線を返したことに気が付くと、まるで恥じ入ったように顔を少し背けた。
何を恥ずかしいと思ったのかは……なんとなく想像できるけれど。
「それからるーこは随分元気になって。今は菜々子ちゃんも知っての通りだよ」
菜々子ちゃんが照れてると、俺もなんとなく恥ずかしい気持ちだけど。
まあいい。
俺は気にしないふりをして話を続けた。
「あれから、るーこは菜々子ちゃんのために、菜々子ちゃんを北海道に連れて行けるようになるためにって、いろいろ勉強しているんだよ。それは、きっとこの場所でこれから生きていくために役に立つことだろうし。たとえきっかけが何であっても、あいつが前を向いて頑張るようになってくれて、俺はすごく安心した。きっと菜々子ちゃんのおかげだよ」
「えっと、それは……」
戸惑う菜々子ちゃんは、少し複雑な表情だった。
まあ気持ちは分かる。
自分のおかげだ、と言われても納得出来ない気持ちがあるのだろう。
「あと……ずっと黙っていて悪かった。ごめんな、俺も臆病でさ。話す勇気、なかなか持てなかったんだ」
「うん……」
謝った俺に、やっと少しだけ頷いてくれて。
それでもしばらく菜々子ちゃんは静かだった。
ただ黙ってこの土手から見える川の流れをじっと見つめていた。
考え込むように沈黙する菜々子ちゃんを横目で見て俺は思う。
俺の気持ち、るーこの気持ち、少しでも理解して欲しい……
それは都合の良すぎる考えなんだろうか?
でも、他の誰よりも、菜々子ちゃんにだけはどうしても理解して欲しいと俺はそう思う。
しばらく考え込んでいた菜々子ちゃんだったが、やがてまた俺に向き直って言った。
「お兄ちゃん……ひとつ教えてくれる?」
「なに?」
「わたしとるーこさん……本当に友達だと思う?」
そう尋ねる菜々子ちゃんの表情は、さっき落ち込んでいたとき以上に不安そうな顔をしているのだった。
「お姉ちゃんとは全然年齢も違うし。わたし、何にも出来ない子供なんだよ? なぐさめとか、そういうのじゃなくて、お兄ちゃんが思う本当のことを言って欲しいの。 お兄ちゃんは、どう思ってる?」
俺はその質問に正直に答えた。
「きっと、大切な友達だと思うよ。心の底からそう思う。」
自信を持ってそう言えた。
たとえ会えないほど遠くても、大切な友達がいる。
その気持ちを真っ直ぐに見せてくれたのは菜々子ちゃんだった。
それは俺の中身を持てない慰めの言葉より、きっとるーこの心に届くものだったはずだ。
そういうのはきっと、正しいとか正しくないとか、いい人だとか悪い人だとか。
そういう次元の問題とは別の――そう、言ってみれば立ち位置の問題だ。
単純な言い方をすれば、あの時るーこに一番近い場所に立っていたのが俺ではなくて菜々子ちゃんだった。
きっとそれだけのことなのだ。
でも、今を生きる人間にとってそれが何よりも大事だといえる瞬間はある。
あの時、るーこと菜々子ちゃんがそんな瞬間を迎えた現場に、俺は立ち会ったんだと思う。
「るーこと菜々子ちゃんは本当の友達だよ。あの日菜々子ちゃんが会いに来てくれたおかげで、今のるーこがあると思う。もし君がいてくれなかったら、るーこは今でも危険だったかもしれない。そう思うよ」
「そう……」
俺の返事に、菜々子ちゃんはちょっとだけ頷いて。そしてまた考え込む。
その静かな表情からは菜々子ちゃんが俺の言った言葉を受け入れてくれたどうか、判断がつかなかった。
やがて、菜々子ちゃんがまた問いかけた。
「ねえ、お兄ちゃん。るーこお姉ちゃんは本当にもう自分のお家に帰れないの? お父さんやお母さんにはもう会えないの?」
「……難しいよ。るーこの家は本当に、本当にとっても遠い場所にあるんだ。北海道よりもずっと遠いんだよ」
俺としてもそう答えるしかない。
本当のところ、るーこの故郷がどこにあるのかも俺は知らないままだったから。
もしるーこの言葉を全て信じるのなら地球の科学力では到達できない場所にあるということになるのか。
45億光年先の故郷に帰るためには、向こうから迎えに来てもらうしか道は無いだろう。
そのためには、るーこから連絡を取る方法を聞き出さないと。
「まずはるーこを説得しなきゃならないだろうな。多分そうしないと何も出来ない。でも、菜々子ちゃんは気にしないで。るーこのことは俺が絶対になんとかしてみせるよ。約束するから」
「うん……」
そう頷いてくれた菜々子ちゃんだけど、その表情はすぐれなかった。
とはいえ、菜々子ちゃんも随分落ち着いてくれたようだし。
とりあえず、今のところはこの話はお開きにすべきだと俺には思えた。
「さあ。もう帰ろうか。菜々子ちゃんは俺が家まで送って行くから」
「ううん、わたし大丈夫。それにちょっと寄るところが出来たし。まだ明るいから一人でも帰れます」
「でもさ……ほんとうに大丈夫?」
さっきまで落ち込んでいた、そしてまだ少し元気が無さそうな菜々子ちゃんの様子を見ていると、一人にするのがどうしても不安になってしまう。
でも菜々子ちゃんはきっぱりと答えた。
「はい。大丈夫ですからどうか心配しないでください」
「本当に?」
「大丈夫です。一人で帰ります」
「う、うん」
俺は仕方なしにその返事に頷く。
菜々子ちゃんの今の状態を考えたらちょっと心配ではあるけど、そこまで言われては仕方ないか。
それにまだ日も高い。
そうそう危険も無いだろうと、そう思えた。
「わかった。気をつけてね。また明日」
「はい、また明日です」
とりあえず、菜々子ちゃんとそこで別れることにした。
俺は菜々子ちゃんの言葉を聞いて、彼女も一人になって少し考えたいのだと。
その時は、そう思っていた。
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以上が『菜々子ちゃんと見上げた空〜第四章〜』です。
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