『菜々子ちゃんと見上げた空』 〜第三章〜  
 俺が菜々子ちゃんに告白(?)してしまった、その次の日。
 学校から帰宅して玄関のドアを開けたとき、そこに菜々子ちゃんの靴は……見当たらなかった。

「まだ来てないのかな……」
  
 その事実に俺は複雑な気持ちを覚える。
 今日菜々子ちゃんに会わなくて済んだという安心と、会うことが出来なかったという焦り。
 小学生の菜々子ちゃんは俺より早く学校を終えて家でるーこと遊んでいることが多い。
 この時間になってもまだ靴が無いということは、菜々子ちゃんは今日は家には来ないのかもしれない。

「もしかしたら、嫌われちゃったかもな……」

 突然妙な告白をしてしまったからな。
 あのとき菜々子ちゃんは『イヤじゃない』と言ってくれたけど、それで不安が消えたわけでも無かった。
 変だと思われてるよなあ、やっぱり。
 でも、出来ればあんないい子に嫌われたくはない。

 とにかく、もし明日も来ないようだったらちゃんと誤解を解きに行こう。
 そう自分の中で結論付けてリビングに向かうと、
 ”ぴんぽーん”
 背後のドアチャイムが鳴り響き、外からの来客を告げる。

「……」 

 ある種の予感を感じて、そのドアを開けると……

「あっ、あの、どうも……」
「うん。いらっしゃい、菜々子ちゃん」
「は、はいっ。こんにちはっ」

 やっぱりそこには想像したとおりの人が立っていた。 
 慌てたようにぺこっと頭を下げる、小学生の女の子。
 やけにかしこまったその姿が、今日はひときわ小さく見えてしまう。

「あ、あの……ごめんなさい! まだ昨日のお返事できないんです!」

 いきなりすごい勢いで謝罪された。
 こっちが口を開くその前に。

「あ、あのさ……」
「待って! わたし、ちゃんと説明するから!」
「いや、」
「お願いします! 何も言わずに聞いて下さい!」
「…………」

 お、俺の方こそ説明させて欲しいんだけど……

「お願いします!」
「……は、はい……」

 あまりに必死なその様子に押されて、つい頷いてしまう。
 
「あの、あたし昨日一生懸命考えたんだけど……」
 
 ちらりと俺の顔色を伺う様子を見せる。

「ほんとうに一生懸命考えたんだけど……でも、どうしても答えが出せなくって……」

 そう言って、悲しそうにうつむく。
 いや、そんなに真剣に考えられても困るんだけど…… 

「これ以上待たせるなんて、そんなのいけないのは分かってるんだけど……あとちょっとだけ待って下さい。お願いします……」

 そう懸命に訴える菜々子ちゃん。
 しかもその瞳にじんわりと涙が……
 ちょ、ちょっと! だめだって! そこで泣くの反則!

「お願いします、もうちょっとだけあたしに時間をください!! どうしても必要なんです!!」
「い、いや、だから、」
「どうか、お願いします……」
「……」

 今にも涙がこぼれそうなその瞳を震わせて、彼女は切々と訴える。
 こ、こりゃどうしたらいいんだ?
 そう考える間もなく、

「明日には必ずお返事します!!」

 それだけ言い残し、菜々子ちゃんは瞬く間に走り去っていった。
 ああ、まるで嵐みたいだったなあ…… 
 …………
 ……

「って、俺は何をやってるんだよ!」

 われに返ってすぐ追いかけたが、もうどこにもその姿は見当たらない。

「逃げられた……」

 これで問題の解決は明日に持ち越しだ。
 まずいなあ、これは……
 菜々子ちゃんのあまりに真剣な様子に、あせる気持ちが水風船のようにゆっくりと膨らんでいく。
 早く誤解を解かないと、どんどんやばくなるんじゃないか?




 
 この状況は非常にまずいと思う。
 だが、解決策はみつからない。
 どうしても、菜々子ちゃんに話を聞いてもらえる方法が思いつかない。
 あんなに足が速いと逃げられたら追いつけないしなあ。

 この誤解をどうやって解いたらいいのだろうか。
 会って話せないなら、この際手紙でも送ろうか?
 いや。いくらなんでも失礼だし、それにラブレターだと誤解されたらえらいことだ。手紙は証拠が残る。
 電話はどうだろう? それとも菜々子ちゃんの家に直接行くとか……
 いやいや、電話口や菜々子ちゃんのお宅であの会話を交わすのは危険だ。家族に妙な誤解を招きかねない。
 ああ、いったいどうしたものだろうか……考えてもいい答えが出ない。
 こうして結論は出ないまま時間は過ぎていき、そしてまた今日も菜々子ちゃんを取り逃がす。

「ごめんなさい! 明日までには必ず!」
 
 ……俺は借金取りか?
 お願いだからちゃんと説明させてくれ……
 




 そんな日々がしばらく続いたある晩のことだ。
 ここ最近では珍しいことに、その日は菜々子ちゃんもるーこも俺の家にいた。
 俺はひとり椅子に腰掛けて、夕食の用意が出来るのを待っていた。
『針のムシロに座る』とはこのことだな。と、古いことわざがぼんやりと頭をよぎる。
 すわり心地はいつもの椅子であるはずなのに、腰はひどく落ち着かない気がする。

「ふう……遅いな……」

 ついため息が混じってしまうのは、今の俺が緊張しているからだ。

『後でちびうーから大事な話があるそうだ。食事の後でだぞ』
 
 るーこからさっきそう言われた。
 その言葉が頭の中でぐるぐると駆け巡っている。
『大事な話』が何なのかは容易に想像出来るが……そこにどうしてるーこが関わってくるんだよ?
 ここしばらく俺の家には寄り付かなくなってしまった(俺から逃げ回っていた)菜々子ちゃんだが、るーことは外で会っているようだ。
 そして今、二人はキッチンに篭ってなにやらばたばたとやっている。
 いつもの料理より少し時間がかかっているように思えてそれがやけに気になる。
 ふたりは何を企んでいるのだろうか。『大事な話』と何か関連があるのかもしれない。
 不安だな……

 と、ようやく菜々子ちゃんがキッチンの奥から姿を現した。
 お盆に料理を載せて一生懸命運んでいる。
 こういうことにはまだ慣れないのだろう。その手つきがちょっとだけあぶなっかしい。
 
「あ、あの、お待たせしました……」
「いや、手伝おうか?」
「ううん。わたしがやるから」

 そう言って先にふきんでテーブルを拭ってから、料理をひとつひとつ並べていく。
 そんな菜々子ちゃんの様子をぼんやりと眺めていた。
 料理の手伝いをしていたからだろうか。菜々子ちゃんは可愛らしい黄色のエプロンを身に着けていた。

「……? どうしたの、お兄ちゃん?」
「え? ああ、そのエプロン可愛いなって思って」
「ええっっ……?!」

 驚きに菜々子ちゃんの手のお盆の上の食器ががちゃんと揺れる。
 あ……俺、つい余計なことを。
 この微妙な状況でそんなこと言ってどうする。

「ご、ごめん。気にしないでくれ」
「う、うん……」
      
 菜々子ちゃんは頷いてまた皿を並べ始めるが、その手つきがおかしい。
 ……また、俺が地雷を踏んだのか? 
 俺が不安げに見守る中、菜々子ちゃんはなんとか皿を無事に並べ終えた。
 ふう……よかった。落とさなかったか。

「よし、ちゃんとできたな。それでは頂きますだぞ」

 いつのまにかるーこがすでに席に着いていた。
 菜々子ちゃんも椅子に座ろうと席を探す。 
 あいてる椅子は二つあった。俺に近い椅子と、るーこに近い椅子。
 菜々子ちゃんはちょっと迷うそぶりを見せた後……俺に近い椅子に腰掛けた。

 ……いや、別にいいんだけど。
 でも、以前ならるーこに近い席に座っていたと思うんだがなあ。気のせいか?
 いつもよりちょっとだけ菜々子ちゃんを身近に感じて、胸のざわつきがさらに大きくなっていく。
 なんだかなあ。

「では、いただきますだぞ」
「いただきます」
「……いただきます」

 まあとにかく、三人の声が重なって食事の時間が始まった。  
 ……緊張で胃袋が喉元までせりあがっているみたいで、食欲がぜんぜん沸いてこないけど。





 かちゃかちゃと食器の奏でる不協和音がリビングに響く。
 でも音を立てているのは主にるーこの食器ばかりで俺と菜々子ちゃんのは静かなものだ。
 
「……お兄ちゃん、食べないの?」
「い、いや。食べるよ、もちろん」

 そういう菜々子ちゃんだって全然食べてないじゃないか、なんて言い返す気にはならなかった。
 その事実に気が付いてさえいないような菜々子ちゃんにそれを告げるのは、なんだか危険だという予感が俺にはあった。
 菜々子ちゃんとこれだけ近くにいるからこそ分かる。
 彼女は俺と同じくらい、もしかするとそれ以上に緊張している。
 そしてその瞳でじっと俺の様子を観察しているのだ。いったい何のために?

「……あのさ、俺がどうかしたの?」
「う、ううん。なんでもないの……」
 
 菜々子ちゃんはそう答えて顔を伏せる。
 でも、顔は伏せてもその視線だけでこっそり様子をうかがっているみたいだし。
 こりゃ、ぜったいなんでもなくはないと思うのだが。
 まあ答えてくれないのでは仕方ない。詮索を諦めて食事を続けよう。
 そう思って俺が何気なく料理のひとつに箸を伸ばした、そのとき。

「あっ……」

 突然、菜々子ちゃんから小さな声が上がる。
 驚いたように見開かれた瞳が俺の視線とぶつかって、すぐに逃げるように伏せられた。
 
「どうしたの?」
「な、なんでもないの……」

 いや。もう絶対におかしいし。

「よかったら教えてよ、ね?」

 正直気になって食事どころじゃない。

「えっと……お姉ちゃん、いいかな?」
「うむ。話せ」

 なにやら意味深なアイコンタクトを交わす二人。
 何なんだろう?

「あ、あの、その玉子焼きなんだけど……」
「なに?」
「……」

 この何の変哲も無いただの玉子焼きがどうかしたのか?

「喜べ。うーが今口にした玉子焼きは、ちびうーが作ったものだ。感謝しろ」
 
 黙りこんでしまった菜々子ちゃんのかわりにるーこが発言する。
 この玉子焼きを? 菜々子ちゃんが作ったの?
 思わず菜々子ちゃんの顔をまじまじと見つめてしまう。
 俺の視線を受けて、菜々子ちゃんは赤くなりながらも静かに頷いた。 

「あの……玉子焼き、どうだった??」
「えっと……」
 
 問いかけて俺を見つめる菜々子ちゃんからの視線が熱い。
 この質問にどう答えればいいのだろうか。
『美味しくなかった』なんて言えるはずがないし、かと言って美味しいなんて言ってしまったら……また何かが危険なような。

「…………」

 菜々子ちゃんは瞬きも忘れて俺のことをずっと見つめている。

『お兄ちゃんのために、一生懸命作ったんだよ?』

 心なしか、潤んだ瞳で俺を見つめる菜々子ちゃんからそんな心の声が発せられているような錯覚さえ覚える。
ちなみに、菜々子ちゃんの背後からるーこが意味不明の怪しげなジェスチャーでプレッシャーを発しているのは錯覚ではない。
 ど、どうする、俺!?
 …………
 ……

「お、美味しかったよ……」

 俺は結局そう言った。
 仕方ないだろ? 他に何が言えるんだよ。
 
「よ、よかったぁ……」

 俺の言葉に菜々子ちゃんは心から安堵したようなため息をついた。
 動悸を抑えるかのように胸に手をあてて、ほう……とため息をつく。
 と、彼女は自分食べるはずの料理を俺の前に差し出した。
 
「あの……これも食べていいよ。これも」

 そう言って、自分の席に並んでいた料理をどんどん俺の前に並べていく。
 結局ほとんどの皿が俺の前に集まった。

「で、でも、こんなに食べたら菜々子ちゃんの分が……」
「ううん、わたしはいいの。もう胸がいっぱいだから」 
「…………」

 そう言うと菜々子ちゃんは胸に手を当てて、『ふう……』と深い溜息をついた。
 なんとも悩ましい溜息だった。
 その頬は赤く染まっている。
 そんな溜息を耳にして、俺は何故だか気が付いてしまった。
 菜々子ちゃんは、もうあの告白の答えを出したのだ。
 俺が勘違いを訂正するその前に。

 そしてもう一つ、今更ながら気づいたことがある。

「な、菜々子ちゃんその腕に付けてるのって……」
「あっ……は、はい、そうです」

 長い袖に隠れていたので、今まで気が付かなかった。
 俺の視線に気が付いて恥らう菜々子ちゃんの腕には、俺が送ったアクセサリーが飾られていたのだ。
 身に付ければ絶対に恋の叶うアクセサリー。
 それを彼女が身に着けてくれているということは……つまり……その……

「あ、あの……これがわたしの返事……です……」
「…………」

 頭がクラクラする。
 ああ……ヤバイだろ。これは。 
 俺、いつか地獄に落ちるな。絶対。





「あの……今日はわたしから大事なお話があるの……」

 いくら食べても味がまったく分からなかった食事が終わり、三人の手に食後のお茶が入った湯のみが行き渡った頃だ。
 菜々子ちゃんが静かに立ち上がり、おもむろにそう宣言したのだ。
『来るべき時がついに来た』
 その時俺はそう思った。だが……

「あの、るーこお姉ちゃん、いい?」

 ……へ? 大事な話って、俺にじゃないの? るーこに?

「なんだ、るーこになにか用か?」
「あ、あの……るーこお姉ちゃんとおにいちゃんって、どういう関係なの?」
「む……何故そんなことを聞くのだ?」

 不思議そうにるーこは尋ねた。この質問はるーこにとっても意外だったようだ。
 俺から見ても菜々子ちゃんの質問は不思議に思える。

「大事な話って、俺に返事をしてくれることじゃなかったのか?」
「で、でも、先にお姉ちゃんとの関係を知っておきたくて……」

 俺とるーこの関係? 

「だ、だって、ずっと気になってたの。二人ともずっと一緒のお家で暮らしてるし、とっても仲がいいし……」
「うーとるーがか?」
「るーこお姉ちゃんにとって、お兄ちゃんはどんな人なの?」

 菜々子ちゃんは挑むような目つきでずっとるーこと向き合っている。 
 果たしてるーこは菜々子ちゃんの問いかけに何と答えを返すのだろうか? ちょっと気になるな。
 るーこは俺のこと、どう思っているのだろう。

「”うー”は、るーの『るーこちゃん係り』だぞ」

 しかし、るーこは迷うこと無くそう言ってのけた。
 る、るーこちゃん係かよ……まだ俺はその正体不明の役職に就かされていたのか。
 出来ることならそろそろ名誉退職したいものだが、引き継いでくれる後任者はどこにもいない。

「るーこちゃん係り? それってどんな役目なの?」

 菜々子ちゃんは不思議そうな顔をして尋ねる。
 実際、それは俺も是非知りたい。
 
「ふむ……まあ、この星の言葉に意訳すると、るーの”奴隷”ということになる」

 るーこはこれまた平然と答えた。
 な、なんだと! 俺はるーこの奴隷なのかよ!?
 さすがにこれだけは翻訳機の故障であると信じたい。

「お、お兄ちゃんが奴隷……?!」 
 
 一方、菜々子ちゃんはその言葉に激しいショックを受けたようだ。
 虚ろに呟きながらふらふらと椅子に倒れ込んだ。
 俺が奴隷だと聞いて、小学生の菜々子ちゃんの脳裏にいったいどんな想像が浮かんでいるのだろうか。
 さぞかしショックだろうなあ……
 っていうか、俺もショックだよ。
 そういえば、るーこは以前オニギリの好きなところだけ食って、残りを俺に食えって言ったこともあったよなあ。
 あれも俺のことその程度のやつだと思ってたからなのか?

「そ、そんな扱いをするくらいなら、お兄ちゃんのことあたしにください!!」
 
 く、くださいって、あのなあ……

「む、うーをよこせだと? それはちびうーがうーのことをつがいにしたいということなのか?」
「つ、つがいって何?」
 
 るーこの言葉に首を傾げる菜々子ちゃん。
 つがいの意味を知らないらしい。

「つまり、うーとちゅーしたいのだな」
「ちゅ、ちゅー!?」

 またもやショックを受けて椅子に倒れ込む菜々子ちゃん。
 こんなことしてるとそのうちショックで救急車を呼ぶはめになるかもしれない。  

「べつにるーこはうーのことなど、どうでもいいのだが」

 倒れこむ菜々子ちゃんを一瞥し、るーこは冷淡にもそう告げる。
 どうでもいいのかよ。

「だがくれと言われるとなんだか腹がたつな」

 ……さっきから思っていたが。
 お前は一体何様のつもりだ? るーこ。
 だいたい俺はるーこのものではない。

「ちびうー。お前はるーこから”うー”を奪い取る覚悟はあるんだな?」
「お、お兄ちゃんのことはこれからはあたしが面倒見るから!」

 俺は菜々子ちゃんに面倒見てもらうのか。
 まあ、なにしろ奴隷の身分だしな。

「だが、うーもちびうーに仕えるよりはるーこに仕えることを選ぶのではないか?」
「ど、どうして?」
「男はより魅力的な女を選ぶものだ」 

 よく言うよ。
 
「で、でも、お兄ちゃんだって、菜々子のことを可愛いって言ってくれたし……」
「む……そうなのか? うー」

 菜々子ちゃんの言葉を聞いて、るーこはじろりとこちらを睨んだ。
 いや、睨まれてもな……
 っていうか、何でお前に睨まれなきゃならないんだよ。
 
「確かにちびうーはなかなか可愛らしいが、るーこだって負けてはいないぞ。るーこは村のみんなから$#‘***のように美しいと褒め称えられた器量よしなのだ」

 なんだそりゃ。地球の言葉で表現できないほど美しいのか?

「でも、菜々子のママってすごく美人なんだよ。菜々子も将来美人になるって、お父さんも言ってくれたもん」

 うん。たしかに菜々子ちゃんのお母さんはとても美人だ。
 菜々子ちゃんを家に送った時に何度か会ったことがある。
 そう考えると菜々子ちゃんは将来有望だなあ……って、俺は何を考えているんだ?!
 
「だが、ちびうーは胸は小さいようだな。ちびうーにはまだ分からないだろうが、うーの男は胸が大きいほうが好きなのだ」
「そ、そうなの?」

 小学生の菜々子ちゃんはるーこの戯言を素直に信じてしまったようだ。

「男の人ってそうなんだ……」

 菜々子ちゃんは悲しげにつぶやいて、俺に視線を送る。
 いや、そんな目で見られても……その……ゴメンナサイ。

「どうだ? この胸は。ちびうーのものとは比べ物にならないだろう」

 るーこはおもむろにポーズを取り、胸を突き出すように誇示して見せる。
 おお! たしかにすごい。
 こうしてみると、るーこの胸ってこんなに大きかったのか……
 く、クラクラくるな。

「す、すごい……」

 菜々子ちゃんもるーこの胸に圧倒されている。
 そして、つと自分の胸を見下ろし……

「あうぅ……」

 世にも悲しげな溜息を一つ。
 それは何かを諦めたかのような、とても悲しい溜息だった。

「わかったか? 圧倒的な力の差を理解出来たろう。これでもるーこに戦いを挑むのか?」
「う、うう……」

 胸を誇示したポーズでずいずいと菜々子ちゃんに詰め寄るるーこ。
 すでに菜々子ちゃんは涙目だ。 
 俺は慌てて止めに入った。

「もうよせよ、るーこ。大人げないぞ」
「なにを言うか。相手がちびうーであっても、女の戦いに遠慮はなしだぞ」
「ふざけるなよ、子供相手にむきになってどうするんだよ!」
「こ、子供……?」

 振り向くと、傷ついたような瞳で俺を見つめている菜々子ちゃんの姿があった。
 あ……俺、また地雷踏んだの? 

「お、お兄ちゃん……あたし、やっぱり子供なの?」

 さっきまで、必死に泣くまいと涙を堪えていた菜々子ちゃんの瞳からじわりと涙が溢れ出す。

「あ、あの、別に俺は……」
「う、う、うう……うあぁぁーーーん」

 ちょ、菜々子ちゃん!
 頼むから泣かないでくれ!

「ば、馬鹿るーこ! 菜々子ちゃんをこんなことで泣かせてどうするんだ」
「ばかなのはうーの方だぞ。ちびうーを侮辱したのはうーの言葉だ」
「なんだと」
「ちびうーだって、女なのだ。うーはそれが分かっていない」
「アホ!! お前はもう黙ってろ!」
「るーっ!!」
「うわーーーん!!」

 泣きじゃくる菜々子ちゃんと、るーるーと唸るるーこ。
 小さな居間に怒号と泣き声が響き渡る。
 ああ。勘弁してくれよ、本当。




  
 夏といえども、この時間になると少し夜風が冷たくなってくる。
 俺は菜々子ちゃんの手をしっかりと握っていつもより早足で夜道を歩いていた。
 菜々子ちゃんを家から送り出すのがいつもよりも遅れてしまったせいだ。

 あれからどたばたすること数時間。
 なだめすかしてやっと泣き止んでくれた菜々子ちゃんを、こうして家まで送っていく。
 二人で夜道を歩くのは、なんだか随分久しぶりだなと思える。
 でも……

「……」
「な、菜々子ちゃん……?」
「……」

 話しかけても返事はなかった。
 菜々子ちゃんは俺から視線を背けたまま。
 さっきからずっとこんな調子だ。

「るーこのやつはちゃんと叱っておくから。もう機嫌を直してくれよ」
「……そんなんじゃないもん……」  
「え?」
「るーこさんのせいじゃ、ないもん……」
「……」 
 
 菜々子ちゃんはどことなく拗ねたような声で答える。
 顔を背けているので表情は見えないが……本当に俺の言葉に怒ってるのか?
 こりゃまいったな。

 こんな時、どうしたら機嫌を直してくれるんだろうか……?
 このみが機嫌を損ねたときのことを思い出す。
 少し迷ったが、俺は菜々子ちゃんの頭に手を伸ばした。
 その手でそっと彼女の頭を撫でる。 

「あっ……」

 ちょっと驚いているみたいだけど、大人しく撫でさせてくれた。
 うん。確かにるーこの言った通り、さらさらでいい髪だ。
 撫でてるとこっちが気持ちよくなるな。 

「こうされるの、いや?」
「ううん……好き……です……」
「そっか。よかった」
 
 長くて綺麗な髪を出来る限り優しく撫でてあげる。
 こうしていると、いつもるーこが喜んで撫でていた気持ちが分からないでもない。

「あ、あの……」

 突然菜々子ちゃんから言葉があった。

「なに?」
「ごめんね、お兄ちゃん。菜々子が子供だから……」
「そんなことないよ」
「ううん、わたしだってわかってるよ。自分が子供だってこと。お兄ちゃんにとっても、そうだよね?」
「…………」 

『違う』とはやっぱり言ってあげられなかった。

「でも、わたし頑張るから。だからお願いです。ちょっとだけわたしのこと待っててください……」
 
 そう言って、菜々子ちゃんは俺の手を強く握った。
 そこには小さな女の子の手とは思えないほどの力が込められていた。
 握った手に菜々子ちゃんの意思が込められているような気がして……何も言えなかった。

「きっと、るーこさんにも負けない女の子になるから」
「でも、」
「これから頑張って牛乳もいっぱい飲むから」
「…………」

 一生懸命なんだな、と思った。
 そんな菜々子ちゃんの言葉を聞いて、なんだか胸が苦しくなる。
 正直に言うと、俺は状況を甘く考えていた。
 菜々子ちゃんがこんなにも真剣だったなんて、思ってなかった。
 あくまで一般論として言えることだけど、小学生の恋愛感情なんて普通はすぐに変わってしまうものだ。
 それは淡い雪のように解けて消えてしまうものでもあり、時には気まぐれな鳥のように新しい場所へと飛び立っていくものでもある。
 だからあまり真面目に考えるものじゃないという気持ちが、きっと俺のどこかにあったんだと思う。
 でも、菜々子ちゃんはそういうタイプの女の子ではないように見えた。
 きっと、菜々子ちゃんはたった一つの気持ちを一途に思いつめていく女の子だ。
 ゆっこちゃんのことを思い出してもそれは分かっていたはずなのに。
 でもここまでとは思わなかった。

 やっぱり、もう黙っているわけにはいかないんだろうな。
 これ以上は取り返しのつかないことになってしまう。
 また逃げられてはいけないので、俺は菜々子ちゃんの手をしっかり握る。
 それはとても小さな手だった。
 俺はこんな小さな手の女の子を傷つけてしまうんだろうか。

「お、お兄ちゃん?」
 
 びっくりしたように、菜々子ちゃん声がはね上がった。

「菜々子ちゃん。俺、大切な話があるんだ」
「な、なに?」
「今までどうしても言えなかったけど、あのアクセサリーは勘違いだったんだ」
「えっ……!?」
「ほんとは俺、ただ菜々子ちゃんと友達になりたかっただけなんだ。恋人っていうのはるーこの言い間違いで……」

 そこまで言いかけて考え直す。いや、るーこのせいにするのは違うよな。やっぱり……

「ごめん。俺の不注意だったんだ。でも恋人だなんて、そんなこと言うつもりじゃなかった」
「言うつもりなかった……ですか?」

 その言葉に、菜々子ちゃんが顔を上げた。
 瞳が悲しい色に染まっていた。

「うん、違ったんだ。ごめん」
「……」

 ゆっくりと。
 菜々子ちゃんの顔が俯いていく。
 傷ついただろうか。やっぱり、傷ついたよな……

「本当にすまない。俺、菜々子ちゃんを傷つけるつもりは無かったんだ」
「謝らなくていいです……ううん、謝ってほしくない」
「菜々子ちゃん?」
「わたしが勝手に浮かれてただけです。だから、もう謝らないでほしいです……そんな風に謝られるほうが悲しいです」
「でも、俺が……」
「本当は、ちょっとだけ不思議に思っていたんです。もしかして、勘違いなんじゃないかって……」

 驚いた。

「あれからるーこお姉ちゃんともいろいろお話して、その時にも話がかみ合わなくて。どこかおかしいなって思ってて、でも……」

 涙がこぼれる。

「それでも信じたかった」
「…………」

 本当のことを言わなきゃいけないって、ずっと思ってて。
 でも、今は後悔に似た気持だけが自分の胸の中にあった。
 こうしたのは、きっと正しいことのはずだけど。

「ごめんなさい……ちょっとだけ、こうしてて、いいですか?」

 そう言うと、菜々子ちゃんは俺の胸にそっと顔を埋めた。
 俺はその肩を引き寄せて菜々子ちゃんを抱きしめた。
 そしてずっとその場所でそうしていた。菜々子ちゃんの涙が枯れるまで。




―――でも、あの日のそんなすれ違いが無かったら、何も始まらなかった。
    ずっと後になってからだけど、今ではそう思う。
    菜々子ちゃんの涙があって、るーことの別れがあって…… 
    そんなことを乗り越えて行かなければ今の俺と、そして今の菜々子ちゃんは無かったはずだ。
    それは平坦な道のりでは無かったけれど。




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