多くの人々に囲まれて、かえって自分を孤独に感じてしまう。
あなたにはそんな経験はないでしょうか。
リトルバスターズに入って、わたしにも親しく接してくださる知人が何人も出来ました。
一人でいたときには感じなかったこと、気が付かなかったことが今はたくさんあります。
それはいいことばかりではなくて。
リトルバスターズの皆さんはわたしに良くしてくれます。
ときに騒がしく校内を騒がせることもある皆さんですが、なにげに思慮深い面があることをわたしは知りました。
元気な皆さんとインドア派のわたしとでは、本来は相容れないはずなのですが。
きっと皆さんがわたしに気を遣ってくださっているからでしょう。
おかげで今までになくわたしは人の間に溶け込むことができています。
時にはメンバーとけっこうキツイ言葉を交わすことさえあります。
特に、三枝さんとか、葉留佳さんとか、三枝さんとか。
普段から温厚を自称しているわたしですが、彼女には結構遠慮なしにものを言ってしまうわたしが居るのです。何故でしょうね。
けれど、そのときは気にせず言ってしまった言葉でも、後になって不意に思うのです。
あのとき、わたしは言い過ぎたのではないか。調子に乗って三枝さんの機嫌を損ねていたのではないか。
そして今、三枝さんはわたしのことをどう思っているのか。
そんなことが気になって、考えて考えて夜遅くまで眠れなくて。
けど次の日の朝、彼女に出会って”おっはよーー、愛しの美魚ちーーん!元気ぃ?”
なんて無駄に能天気に挨拶されて、妙に安心してしまう自分がいるのです。
愚かなわたしです。
こんなわたしが、ここに居てもいいのでしょうか。
○月×日
例の夢を見てから数日が経ちました。
わたしはまだ、彼女には出会っていません。
遠い場所に置き去りにしてきた、もうひとりのわたし。
でも、再会の日は少しづつ近づいているはず。
些細な……ともすればただの偶然としか思えないような変化がそこかしこに存ることに、わたしは気付いています。
その僅かな変化に気が付いている人は、ほとんど居ないことでしょう。
そしてもしそれに気が付いたとしても、誰もがきっと思い過ごしだと考えてしまうのです。
今日。
わたしはクラスメイトの方とすれ違いざまに軽く肩をぶつけてしましました。
しかしあの方は、わたしに気付かなかった……いえ。おそらくわたしの存在を感じることが出来なかったのでしょう。
それはよろしいのですが、その瞬間を運悪く直枝さんに見られてしまったのです。
直枝さんは状況を不自然に思ったようです。
些細なことだと忘れてくれればいいのですが。
○月×日
恭介さんから短歌の大会に参加する旨を伝えられました。
まさかリトルバスターズのみなさんと短歌を作ることになろうとは。
よもや思いもしませんでしたね。……本当に作れるのでしょうか?
「 風光る あなたの傍に 君がいる 真っ赤なブルマ ぼく大巨人! 」
これが皆さんが共同で作った……作ってしまった歌のひとつです。
わたしが自らこのような共同作業に関わってしまうとは。
屈辱です。
真人さん。そして、三枝さん。あと、多分来ヶ谷さん。
どうかお願いですから、こんなときくらい真面目にやって下さい。
本当にお願いします。
ところで、この”真っ赤なブルマ”という下の句について個人的に思ったことがあるのです。
短歌、俳句の中には時代の変化によって失われてしまった生活品や装束がいくつも登場しており、
それらは遠い過去に生きる人々の文化や風情を想って楽しむ言葉として愛されて来ました。
そして皆さんご存知の通りブルマもまた時代の流れ、もしくは一部の圧力によって廃絶されてしまった装束です。
もしかして、いつかブルマも失われてしまった文化の一つとして歌に文芸にと親しまれる時代が来るのでしょうか?
はっきり言って、すごく嫌です。
小学生のころ、自分がブルマを履いていた写真を全て燃やしてしまいたいと切実に思います。
そして今夜の女子秘密結社の活動ですが……あろうことか、ブルマー祭りでした。
赤ブルマー、紺ブルマー、黄ブルマー。
新旧取り混ぜたありとあらゆるブルマーを集めてきたのです。あの人たちが。
「いやいや、絶景だなあ」
「さっすが姉御! いいセンスしてますねえ」
わたし達はそれぞれ色違い合計六色のブルマーを履いて体育館の壇上に並びました。
体育戦隊・ブルマレンジャーだそうです。頭が痛くなるネーミングです。
ちなみにわたしはブルマブルーなんだそうです。
泣きたいです。
写真まで撮られました。
死にたいです。
このような企画を設定した来ヶ谷さん、三枝さん。
この日のことをわたしは生涯忘れませんから。
あとわたしの写真は絶対、絶対誰にも見せないで下さい。
そしてみなさんと撮った写真。わたしも一枚頂きました。
写真のなかのわたしは、不機嫌そうにあさっての方向を向いていますね。
そしてその肩を強引に抱き寄せて、三枝さんが黄ブルマー姿でVサインしています。
本当に本当に楽しそうな顔してます。
なんだか悔しいので、三枝さんの写真にラクガキしてあげましょうか。
……うん。三枝さんには意外と学ランが似合いますね。
今度、わたしから素敵な贈り物をしてあげましょう。
借りは必ず返すのが礼儀というものです。
○月×日
今日、直枝さんから「商店街でわたしを見た」と言われました。
直枝さんが言うには、その”わたし”は日傘をしていなかったそうです。
それを聞いてわたしは確信しました。
彼女です。
いつかわたしと出会い、入れ替わる日もそう遠くはないでしょう。
けれど、直枝さんが周囲の変化に気付きつつあるようなのです。
どうしたらいいのか分かりません。
わたしを認識できなくなっていく人は日々増えていくのですが、その変化には温度差があるようです。
もともとわたしと関係の薄かった方々には、もうほとんどわたしが分からないようです。
直枝さんは、いつまでわたしを憶えていることでしょうか。
ありえないことですが、もしわたしが消えてしまった後でも直枝さんがわたしのことをずっと憶えているとしたら。
このままでは直枝さんに迷惑をかけてしまうかもしれません。
それだけはどうにかして避けたいと思っています。
夕方、直枝さんと二人で短歌を作る為に河原へと出かけました。
そこでいろいろな話をしましたが。
今思うと、ずいぶん脈絡のない話ばかりしてしまったものです。
どうしてあんな話をしたのか。
直枝さんは困惑しているのかもしれませんね。
おそらくほとんどの人がそうだと思いますが。
わたしは誰かの短歌を読むとき、その短歌を作った人の立場や気持ちを想像してみます。
その詠み人が生きてきた時代、歴史、そして人生。
そこからその人が生きている世界を感じられたとき、その歌が、言葉が。
自然にわたしの心の中に刻み込まれるのです。
もちろんすべての短歌をそう思えるわけではありません。
わたしには全然わからない歌だっていっぱいあります。
けれども短歌を作る人も、そしてそれを読む人も。
きっとそうやって通じ合えることを望んでお互いがお互いを求めるのだとわたしは信じています。
では、二人もしくはそれ以上の人数で短歌を合作するとなると、その意義はどんなものになるのでしょうか。
たとえば昨日のリトルバスターズの皆さんとの合作。
とんでもない歌ではありましたけど、でもあれはあれでよかったのかもしれません。
わたしはあの歌を読むとき、みんなで短歌を作ったあの日のことを思い出します。
教室の片隅で歌を作る為に集まったわたしと、直枝さんと、そしてみなさん。
真面目に書いてくださったけど、でも真面目すぎて空回りしていた宮沢さん。
まるで意味をわかってなくて、だから自分の好きな言葉を書くんだと言っていた鈴さん。
俺の素晴らしい筋肉で歌を作ってやる、などと言ってひたすらヒンズースクワットを繰り返していた井ノ原さん。
あの場所に、確かにわたしはいたのです。
みんなの中で、みんなの中のひとりとして。
あの歌を読むとき、わたしはそれを感じることが出来るのです。
皆さんが読んだときも、同じようにわたしのことを感じてくださるでしょうか。
だとしたら、あの歌はわたしにとって何物にも代え難い大切な歌です。
直枝さんと二人で作る歌があるなら、そんなふうに思える歌がいいと思ったのです。
直枝さん。
あのとき河原で話したことは、今まで誰にも告げることなく静かにわたしの中で眠っていた言葉です。
もしあなたに出会わなければ、きっと誰にも話すことはなかった言葉です。
そして、あのときわたしの心のなかに浮かんでいたあの気持ちは。
あの夕暮れのひととき。
わたしはあなたの隣にいて、あなたの隣にいることを大切だと感じました。
それは永遠ではないし、確かなものでもなくて。
ましては恋慕でもないと思います。
ただわたしのなかだけのささやかな思いです。
この世界を去ろうとしているわたしですが、でもそのささやかな思いを大切に感じています。
わたしがそう思えたこと。あなたがそう思わせてくれたこと。
そして、わたしの隣にあなたがいてくれたことを決して忘れません。
たとえあなたが忘れてしまっても。
○月×日
今日、学校をずる休みしてしまいました。
わたしが今日一日学校に姿を見せなければ、状況の進行が早まると考えたからです。
普段からわたしを意識していない人たちは、しばらくわたしから離れればすぐわたしの存在を忘れるはずです。
そして連鎖的にわたしの存在は別の存在にすり替わっていくでしょう。
その変化が進めば、彼女もきっとわたしの元に姿を現すでしょう。
そうすれば、すべてが終わるのです。
午後すぎに直枝さんがお見舞いに来てくださいました。
本来なら会うべきではなかったのですが……
わざわざお見舞いに来て下さった直枝さんを追い返すことはどうしても出来ませんでした。
直枝さんはわたしが制服を着ているのを見て、何故か不思議そうな顔をしていました。
もしかして、わたしのパジャマ姿を視姦したかったのでしょうか?
ええと、きっと男の方にはわたしのような小娘には理解出来ない複雑な事情もあるのでしょう。
あえて深くは問いません。
直枝さんにお願いして、日曜日にわたしにつきあって頂く約束を結びました。
おそらく、直枝さんはこの約束を忘れてしまうでしょう。
でももし直枝さんが約束を憶えていて、そしてわたしに会いにきてくれたら。
その時にはわたしは直枝さんに真実の全てを話そうと、そう決めました。
○月×日
短歌コンクールの会場に、河原で作ったあの歌を提出してきました。
もしいつか直枝さんがあの短歌を読んだら、と思うと。
それだけで恥ずかしくて顔が熱くなります。
変ですね。
たとえ直枝さんがあの短歌を読んでも、意味は理解出来ないはずです。
だというのに、それをこんなにも恥ずかしく想うなんて。
恥ずかしくて、不安で、胸が苦しくて。
そしてなぜか涙さえ出そうになります。
やはり、あの短歌はわたしが直枝さんに捧げたものです。
いつかそれをあなたに見てほしいとわたしは願っています。
そしてこれがわたしにとって最後の日記になるでしょう。
いま、わたしは二度と読み返すことのない日記をこうして静かに書いています。
無為な行動ではありますが、本来日記とはそのようなものかもしれませんね。
それでは。
○月×日
書くはずのなかった日記の続きを書いています。
わたしはまたこの場所に戻ってきました。みなさんが居るこの場所に。
さて。困りました。
いまさら何を語ればいいのか分かりません。
なにより、わたしはこの日記を書くのがなんだかひどく恥ずかしい気持ちなのです。
それは自分がこれから書こうとしていることが、今まで書いたことのないことばかりだからです。
でもこれから書いていく日記が、例え今までわたしが書き続けてきた日記の全てを否定するものだとしても、
またここから書き始めていくべきなのでしょうね。
いま、わたしはひとりです。
たったひとりきりです。
そのことを、今までになく強く感じています。
ほんのさっきまで直枝さんの部屋にいて、あなたの温もりを感じていたからです。
これでわたしは直枝さんの恋人になったのでしょうか。
でも、わたしにはそのような実感はありません。
それをもしあなたに告げたら。直枝さん、あなたはどんな顔をするでしょうね。
そしてどう想ってくれるでしょうか。
わたしが何故、あの夜あなたの部屋を訪れたのか。
直枝さんはわたしあの行動をどのように感じていたでしょうか。
わたしは、ただ不安だったんです。
直枝さんはわたしを助けてくれた。
それが終わったらわたしとの関係も終わるのではないか。
そうならなかったとしても、わたしとの距離は前よりも遠くなるように思えます。
直枝さんがわたしのことを気にかけてくださったのは、同情。
少なくともきっかけはそうだったのだろうと、今でもわたしは考えているのです。
だから、わたしはいつも不安です。
いつまで、あなたはわたしのことを想ってくださるでしょうか。
そう思ったから、あの夜わたしは。
肉体的な関係を持ったという事実は、きっとなにより確かな繋がりを信じさせてくれるのだと、
わたしはそう考えました。
それは間違いではないかもしれませんが、でもそんな繋がりさえ今のわたしを安心させてくれないのです。
そんな気持ちを、あなたは分かってくれますか?
日記に書いた自分の言葉を読み返してみても、気持ちが上手くかけていないような気がします。
言葉は難しいものです。
自身にさえよく伝わらない言葉が、どうして誰かに伝わるでしょうか。
それでも誰かに想いを伝える為には言葉を紡ぐしかありません。
たとえ間違ってしまっても、わたしはまた何度でもあなたに言葉を伝えようと思います。
だから、これからもわたしの言葉を聞いて下さい。
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
そんな日記をこうして読み終えたわけだけど。
ケヤキの樹の下で、僕は広げていた大学ノートを閉じた。
そして隣に座る彼女に尋ねる。
「あのさ、西園さん」
「はい。なんでしょうか」
隣に座る彼女。
西園さん。この日記の執筆者でもある。
彼女は楚々として膝の上に広げた文庫本を読んでいる。
「これ、日記じゃないよね?」
「いいえ。厳然とした日記です」
何を言うんですか、といった感じで彼女は僕の言葉を否定。
でもなあ。
「表紙に『日記』って書いてあります」
「いやいやいや」
「なぜ、直枝さんはそれが日記ではないと思ったのでしょう」
僕に問いかける西園さんだが、しかし手元の文庫小説に落とした視線は動かない。
彼女は何故か僕に顔をむけようともしない。
でもその横顔は小説を読むのに夢中になっているという感じでもなかった。
もしかしたら、彼女は機嫌が良くないのかもしれない。
僕は何か不用意なことを言ったのだろうか。
「えと、だってこの文章……僕に向けて書いてあるみたいだし」
少し不安だったが、僕はとりあえず自分が思っていた疑問をそのまま言った。
僕はいままで誰かの日記をじっくりと読んだことはない。
だから女の子が書く日記がどういうかなんてそれほど詳しく知らない。
しかしそんな僕でもこの文章が日記としてはいろいろとおかしいことぐらいは分かるつもりだ。
特に日記の後半部分。
ここは明らかに僕に対するメッセージのように書かれている。
普通の日記にはこんなことは書かないはずだし。
「それは当然です」
しかし西園さんはまた僕の言葉をさらりと流す。
手元の小説のページはさっきからめくられていないように見えた。
やはり西園さんは意図して僕の視線を避けているのだろうか。
「当然って何故?」
「だって、それは直枝さんの為に書いた日記ですから」
「え〜〜!?」
あまりにも意外なその言葉に僕は思わず大声で叫んだ。
静かな中庭に僕の悲鳴のような声が響いてしまう。
近くを歩いていた数人の生徒が僕と西園さんを遠めに眺めては通り過ぎていった。
『驚きすぎです』、と西園さんの静かな声が僕をたしなめた。
恥ずかしい。
「だってさ、そんなの初めて聞いたよ……」
「初めて言いましたから」
そして西園さんは開いていた文庫本をようやく閉じた。
青い表紙の文庫本は西園さんの膝スカート上に。そしてその上に西園さんの細い指先が組まれていた。
繊細な指先。
綺麗だな、と。僕はふとそんなことを思う。
「直枝さんがわたしの日記を見たいと言ったので、ゆうべ大急ぎで編集したんです」
「日記を編集するって話は聞かないなあ」
編集したんだ。しかもたった一晩で。
そりゃあすごいと感心しておくべきなんだろうか。
しかしその意図が僕にはまるで分からない。
「直枝さん。文章とは言葉です」
「……?」
西園さんの言葉は時に唐突に流れを変える。
その言葉に誘われて僕の思考もまた迷いだす。
「そして言葉は人に想いを伝えるためのものです。
同じ想いであってもそれを誰に向けて伝えるかで、言葉は形を変えるはずです」
「それは、そうだね」
「では日記とは、本来誰に向けて書くものでしょうか」
「ええと、日記なんだから……別に誰かに向かって書くわけじゃないよね?」
「いいえ。きっとそれは違います」
呟く西園さんの横顔には、何故か静かな笑みが浮かんでいた。
「たとえどんな文章でも、誰かの為に書くものです」
「そうかなあ」
日記。
僕は自分で日記を書いたことはない。
これまで書こうと思ったことも無かった。
そもそも人は何故日記を書くのか。僕にはそれが分からない。
たとえば小説を書く、という行為ならば少なからずその意図は分かる。
自分で書いたことはなくともそれを想像することは出来る。
自分の考えた物語。夢や理想。いつか見た景色。
心の中にあるもやもやとした言葉にならない想い。
誰かに伝えたいメッセージ。
そういったものを一つの形にして誰かに読んでもらえたら。
それはきっと、誰かに自分の心の姿を見せるようなものじゃないだろうか。
「でも日記って、普通人に見せたりしないよね」
「ええ。中には世間に広く公開するための日記もあるそうですが。
わたしはそのような日記を書いたことはありません」
「じゃあ、人に見せない日記にはどんな意味があるんだろうね」
「誰かに見られなくても、自分が見ています」
「確かにそうだけど」
「自分という、誰かが見ています」
「そうだね」
自分という誰か。
その言葉を聞いて、僕の心の中に浮かんだのは目の前にある西園さんとまったく同じ姿で、でも違う存在。
あれから彼女について西園さんと話したことはなかった。
「わたしは今まで、大切な言葉や想いをこの日記に綴ってきました。
他の誰にも見せることなく、ただわたし自身のためだけに」
もしかしたら、西園さんは日記を書くことで大切な言葉を彼女と交わしてきたのかもしれなかった。
「でも、わたしはその日記を書きなおしました。
これからは、わたしだけのためだった言葉も、あなたが聞いて下さい」
「う、うん」
きっと恥ずかしいのだろう。
語る西園さんもずっとうつむいた顔を上げることはなく。
僕もそんな西園さんと目を合わせることが出来なかった。
西園さんが自分の中だけに向けて綴っていた大切な言葉。
その言葉が、いま形を変えて僕のためだけの言葉として預けられた。
僕はその言葉を大切にしたいと思う。
「わたしの話、分かっていただけましたか?」
「うん。よく分かったよ」
「では、本題に入ります」
「え?」
本題ってなに?
西園さんはさっきまで僕が読んでいた日記を取り上げ、その表紙になにごとか書き込んだ。
そして、僕に返す。
「はい、どうぞ」
「はい?」
返された日記には、短い単語がひとつだけ追加されていた。
それはたった二文字の単語。
『交換』と。
日記+交換。……交換日記?
「わたしはただ言葉を言いたかったのではなく、想いを伝えたいのです。
でも想いが伝わったかどうかを確かめるためには、あなたの言葉を聞かなければいけません」
「そ、そうだけど、つまり?」
「今度は、直枝さんの言葉を聞きたいです」
「えっと……」
で、交換日記ですか?
この僕にも日記を書け、と??
「いやいや僕には無理だよ」
「日記なんて誰にでもかけます」
「西園さんに見せるようなものはとても……それに恥ずかしいし」
「直枝さん、ひどいです」
「え?」
責めるような瞳で僕を見ている。
今度こそほんとに西園さんは怒っているみたいだ。
「わたしがこの日記を見せるとき、恥ずかしくなかったと思いますか」
「う……」
それは聞いてみればしごく当然の主張だった。
僕が間違っていたと認めるしかない。
「ひとりで書いてるときだって、すごく恥ずかしかったです。
途中で何どもやめようと思いました。それでも勇気を振り絞って書いたんです」
「ご、ごめん」
「ひどい、です。わたし、ほんとうに頑張ったのに……」
「あ、あの、西園さんっ?!」
僕は慌てた。
西園さんは怒るどころか今にも泣き出してしまいそうな顔だった。
「本当にごめんっ、僕そんなつもりじゃ」
「いえ、いいん、です」
こぼれそうな涙をそっと拭って、西園さんは首を振った。
「平気です、泣いたりしてごめんなさい」
「いや、僕のほうこそ」
でもまさか泣くとは思わなかった。
いや。日記にも不安だって書いてあったじゃないか。
西園さんはすこしも僕をからかったりなんかしてないんだ。
だからこれはいつものノリで返していい場面じゃなかった。
その辺を僕も意識しないといけない。
「書くよ、日記。僕も書くから。だからもう泣かないで」
「はい……」
けれども西園さんは僕の日記を読んでどう思うのだろう。
僕が思うこと、彼女にうまく伝わるだろうか。
伝わったとしても、それを彼女がどう受け止めるのかは分からない。
ああ。でも西園さんもこんな不安を抱えながら、この日記を書いていたのだろう。
だとしたら、僕も同じように努力して彼女に気持ちを伝えなければならない。
でも一体何を書いたらいいのだろう。
「書くけどでも、きっとすごく下手だと思う。
意味わかんないこととか書くかもしれないよ?
僕、文章とか書いた経験無いし」
「いいんです。そのほうが。
飾りのない直枝さんの素直な気持ちを見せて下さい」
「わかったよ。じゃあ、まず……」
僕は日記を開いて、すぐに書き込みを始めた。
簡単な言葉だから、すぐ終わる。
書き上げて西園さんに渡した。
「もう書いたんですか?」
「まずはこれだけ。後はいろいろ考えてみるから」
西園さんは不思議そうな顔で僕を見ている。
そして、ゆっくりと日記を開く。
「…………」
「ど、どうかな」
「はあ」
溜息。
そして困った顔をして僕を振り返る。
「だめかな、こういうのは?」
「だめ、じゃ……ないです、けど」
否定はされなかった。
それだけを確かめて、僕は西園さんの手を取った。
「あっ……」
西園さんの手は汗ばんでいた。ずっと緊張していたのだろう。
「これは、日記ではないと思います」
「西園さんのだって、日記らしくなかったよ」
「でも」
「それに、これは僕の素直な気持ちだから」
「あえて『率直な欲望』と、言い直させてください」
「う……」
「でもこんな文章ばかり並べられたら、後で読み返したときに恥ずかしくなってしまいますね」
「恋人どうしの交換日記なんて後で読んだら恥ずかしい言葉ばかりになるに決まってるよ」
「そうかもしれませんね……」
手と手を繋ぐ僕たちの間を通り抜けたそよ風が、日記のページをぱらぱらとめくる。
そこにはついさっき僕が書きこんだ言葉が書いてある。
僕が生まれて初めて書いた日記。
西園さんに向けて贈った言葉。
『西園さんが好きです』
『西園さんの手を握りたいです』
『ずっと西園さんと一緒に……
第一章 第二章