はじけるこころ   ―後編―
四月二十五日[金曜日]

 杏の気持ちを知ってしまった次の日の放課後。
 教室に居場所が無かった俺は、資料室に逃げ込んでいた。

「朋也さん、今日は素敵なコーヒー豆が手に入ったんです」

 資料室の天使、宮沢有紀寧は微笑んでコーヒーを準備してくれた。
 そんな有紀寧をぼんやりと眺めながら、俺は昨日のことを思い出していた。

 昨日、杏から驚愕の告白を受けた後。
 涙に震える杏を前にして、俺はただ茫然とするしかなくて……
 いや、あのときの杏は俺にとって眩しすぎたんだ。
 そんな杏に掛ける言葉が俺には無かった。
 そうしているうちに、体育倉庫室の扉はいつのまにか開いていた。

 あれからまだ杏には会ってはいない。
 今朝、微かな期待と怯えとを胸に登校してきた時には出会わなかった。
 スクータの音がしたとき、思わず振り向いてしまったけど……
 見知らぬおばさんだった。
 杏は教室には顔を見せなかった。
 お昼の時間に教室にやって来たかどうかは……わからない。
 確かめるのが怖くて、ここに逃げ込んだから。
 杏に会わない一日というのは今までも珍しくなかったけど、あんなことがあった次の日だ。
 会うのが怖いけど……会えなかったことも気になる。
 杏は俺を避けているんだろうか?
 それとも俺に避けられていると思って、気にしているのだろうか。
 どっちにしても、会って謝らなければいけないことや、言わなくてはいけないことが沢山あるはずだけど……
 
「どうかされたんですか、朋也さん? お顔の色がすぐれませんが……」
「いや……別に……」

 さっきから自分でも暗いオーラを出しているのが分かる。
 これで何でもないとか言うのもどうかと思うが、やはりむやみに人に言える悩みではない。

「お金なら、少しはお貸しできますが……」
「……ここはコーヒーとかピラフだけじゃなく、金融ローンまでやってくれるのか……」

 というか、俺が金に困ってるように見えたのか? 

「利子は、十日で一割です」
「しかも高利貸しかよっ?!」
「さあ……よくは知りませんが……そういうものではないんでしょうか?」

 どうやら天然で言ったらしい。
 宮沢の『お友達』から仕入れた知識ではないことを祈りたい。

「では、お身体の調子でも悪いのですか? 人工呼吸の処方なら心得がありますが」
「……今の俺に人工呼吸の必要はないな。とりあえず」

 思わず宮沢に人工呼吸をしてもらう姿を想像してしまうじゃないか。
 っていうか、ここは正直に答えたほうが良さそうだ。
 でないといつまでたっても宮沢の勘違いは終わらない気がする。
 ……案外『お友達』の悩みもこうやって聞きだしているのだろうか?
 
「俺……女の子に……杏に好きって言われて……」
「えっ? 好きって、告白ですか?」

 宮沢もさすがに驚いたようだった。
 
「では……その方のこと、どう思ってるんですか?」
「今さら、こんなこと言うのもムシが良すぎるけど……」
「……」
「あんなに思ってもらって、怖いぐらいだよ……だからこそ、信じる気持ちになれないのかもしれない……」
「どうして信じられないんです?」
「それは……そんなに好かれる理由なんて俺にはないと思うし……」

 宮沢は少し考え込んだ後、ふと気付いたように言った。

「朋也さん、コーヒー淹れ直していいですか?」
「えっ……?」

 気が付くと、目の前のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
 宮沢がせっかく淹れてくれたコーヒーなのに。
 しかも、特別な豆まで挽いて用意してくれたコーヒーなのに……
 口をつける前にすっかり冷めてしまっていた。
 またやったのか、俺……
 杏のときと同じだ。
 杏はずっと俺のことを好きでいてくれたのに、俺はその気持ちを台無しにした。
 いまさらどんな言い訳をしたって、取り戻せるものじゃないように思う。
 やっぱり俺なんか……

「すまん……宮沢……」
「気にしないでくださいね」

 宮沢はコーヒーカップを片付けると、またコーヒーを淹れ直し始めた。
 ゆっくりと、丁寧に豆を挽く。
 コーヒーミルが、豆を砕く小気味いい音をたてている。

「コーヒーなんて、何度でも淹れなおせばいいだけです。朋也さんがお嫌でなければ……」
「そんな……そこまで宮沢に面倒を……」
「面倒なんかじゃありません。だって朋也さんが来てくれたんですから。」

 宮沢は、いつもとは違うきっぱりとした口調で言い切った。
 だから、俺もその言葉だけはいじけずに、素直に受け取ることができた。
 だからこそ、疑問はあった。

「何で宮沢はそんなに嬉しそうなんだ? 別に俺は今まで宮沢に特別なことをしてきたわけじゃない」
「本当に大切な人は、側に居てくれるだけで嬉しいんですよ。杏さんも、そうだったかもしれませんよ」

 宮沢が訪れる不良たちを大切なお客さんとして扱っていることを思い出す。
 たしかに、いつも宮沢は本当に楽しそうだった。
 そんな気持ちもあるってことを俺は見てきたはずだ。 

「信じていいのかな……」
「わかりません……でも、私だったら信じてもらえないことは寂しいです」

 信じて貰えないと寂しいか……
 杏も、もしかしたらそう思っているだろうか?
 そうじゃないとしても、好きだと言って貰った責任は果たさないとならない。

「はい、コーヒーです。どうぞ……」

 俺の前に、そっとコーヒーカップが置かれた。
 宮沢の淹れてくれたコーヒーを飲む。

「いかがですか?」

 正直、俺にはコーヒーの味の違いなんてわからない。
 でも、コーヒー豆を挽いたとてもいい香りと、熱いコーヒーから伝わる温もりと。
 そしてなによりも、心をこめて淹れてくれた宮沢の優しさは、はっきりと伝わった。
 なんだか少しだけ……ほんの少しだけ元気が出たような気がしてきた。
 いまさら無駄かもしれないけど、もう一度やってみよう。

「美味しいよ……ありがとう。宮沢」
「はい。おそまつさまです」
「俺、行って来るよ。世話になったな」

 俺は席を立って、宮沢に別れを告げた。

「あ、あの……」
「なんだ?」
「好きな方ができても、またここに来てくださいね。朋也さんに会えないと寂しいですから」
「ああ、また来るよ。コーヒーを飲みに」
「ええ、ぜひ杏さんも一緒に」

 笑顔に見送られて、俺は資料室を後にした。
 そう簡単に許してもらえるはずがないけど、行ってみるしかないだろう。
 杏はまだ教室にいるかもしれない。


 ――数分後、教室から怒号と悲鳴と喚き声が響き渡った。
 端的に言わせて貰えれば、さすがに俺も死ぬかと思った。
 いや、椋が止めに入ってくれなかったら本当に死んでたかもしれない――


 日の沈みかけた校庭で、俺は杏の肩を抱いていた。
 今、杏は俺の隣でおとなしくしているけど、さっきまではそうじゃなかった。
 教室で杏をみつけて、それからが大変だった。
 やっぱり、杏は俺の言葉なんてろくに聞いてくれなかった。
 俺の顔を見るや否や、強烈な張り手を繰り出した。
 そして俺は、杏に殴られて、噛み付かれて、蹴っ飛ばされた。
 もちろん辞書も投げてきた。
 辞書だけじゃなくて、机とか椅子とか、最後には黒板を引っぺがして投げつけてきた。
 おまえ、ほんとに俺のこと好きなのかよ?! と聞きたくなるほどこてんぱんにやられた。
 殴られながらも土下座して女を口説いたのは、この世で俺だけだろう。
 いや、そうでもないのか? 案外そんなものかもしれん。

「あはは、おもいっきり暴れたら、なんだかスッキリしたわ」

 杏は本当にスッキリとした顔でそう言いやがった

「ひでえなあ……痛かったぞ、マジで」
「ひどいのはあんたのほう。あたしのほうがずっと痛かったんだから」
「う……」

 それを言われると、俺としては平謝りするしかない。

「いっとくけど、まだまだこれくらいじゃ許してあげないんだからね。あと百万発は殴らなきゃ」

 お前は子供か。

「そんなに殴られたら死んじまうぞ……」
「大丈夫。一日一発、分割払いでやってあげるから」

 大丈夫じゃない……それにお前、言ってる意味わかってるのか?
 そういう状況を想像してみる。
 杏に毎日必ず殴られるわけだ。これからもずっと。

「それじゃあ、一生かかるぞ」
「あ……」

 杏は頬を染めてうつむいた。

「あ、あたし……別に……そういう意味じゃないけど……」
「そうか?」
「でも……そ、それでも、別にいいよ……」
「そっか……」

 ところでさっき、『一日一発やってあげる』と杏は言った。
 その言葉には、男として確認しなければならないことがあった。
 たとえ命を賭けてでも。

「杏……その一発ってどんなの? ひょっとしてエロ……」
「こんな一発よっ!!」
「ぐふうっ?!」

 杏のボディブローがきれいに入ったので、残念なことにこれ以上は聞けなかった。
 猛烈な痛みと共に思うことは……

(ああ……こういう幸せってあるのかも……)

 アホなこと言って、ぼかぼか殴られて。でもずっと杏と一緒の日々か……
 痛そうだなあ……でも、それもいいかもしれないと俺も思った。

「あと、椋のことね。あれで椋のことも済んだなんて思ったら駄目よ」
「ああ……」

 実は俺が訪れた時、杏は妹と一緒に教室に居たんだ。
 その時、二人は泣きながら抱き合っていた。 姉妹がやっと和解した瞬間だったのだ。
 俺の事では、お互いが遠慮無しでいこうと約束したそうだ。
 そんなところに問題の俺がのこのこ顔を出したわけだ。
 我ながらなんと間の悪い男だろう。
 姉が怒るのも無理はない。
 でも、こてんぱんにやられた俺を助けてくれたのは妹だった。
 その時に交わした言葉は思い出せる。

「なんか、あたしお姉ちゃんには敵わないかも……」
「椋……?」
「だってもし本気で怒っても、私じゃあんなに岡崎さんを殴れないし……」
「はあ?」
「じゃあ、頑張ってね。お姉ちゃん」

 そう言い残して、妹は先に帰ってしまった。
 なんか分かるような、分からんような納得の仕方だった。
 でも、こうして杏にぼかぼか殴られてるとなんか納得できる気もする。
 なんの根拠もないけど。

「あたしと椋とは仲直りしたけど、あんたと椋の問題は、きっとまだだからね」
「ああ……わかってる」 

 きっとまだあいつとはいろいろあるだろう。

「いろいろあるだろうけど……とりあえず、これからもよろしくな」
「えへへぇ……」

 髪をそっと撫でると、杏は目を細めて笑った。
 子供みたいに無防備な笑顔だった。

「ちょっと寒くなってきたか?」
「うん……でも、もうちょっと一緒に居たいな」
「じゃあ、コーヒーを飲みに行かないか? すごく美味しいコーヒーを飲める場所があるんだ」
「うん、いいよ。……でも、その前にお願いがあるんだけど……」
「なんだ?」
「ん……あのねえ……えっと……」
「なんだよ、早く言えよ」
「えへへぇ……」

 ……なんか……言わなくてもわかった気がする。
 俺から言ったほうがいいのかな?
 それとも杏に言ってもらおうかな……
 ちょっとだけ迷ってしまった。


 そして、俺と杏は初めてのキスをした。 

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